おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2019.08.15column

17日0:00~Eテレで映画『ひろしま』放送、ぜひご覧ください‼

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8月11日に「映像を通して平和を考える」という催しをしました。たまたま玩具映画として残った戦争に関する映像の中には、記録映像やアニメーションもあります。それらがどういう目的で作られ、家庭で、地域で受容されていたのかを、平和学習に取り組まれている滋賀県長浜市の学芸員西原雄大さんに解説していただきながら、それらの映像から何が読みとれるのかを学びました。中には、開始前に京都市内の出町座で映画『ひろしま』を観て来られたばかりの人もおられました。

その映画『ひろしま』が各地の映画館で上映されていますが、17日真夜中から、NHKEテレで放送されます。早速私も録画予約しました。それに先駆け、今朝未明のEテレで「忘れられた“ひろしま”’~8万8千人が演じた“あの日”~」が放送されましたので、先ほどメモを取りながら録画を観ました。

このチラシ表の一番上に小林一平さんのお名前がありますが、その意味が番組終わり近くになって漸くわかりました。国立映画アーカイブにひっそりと保管されていた映画『ひろしま』のフィルムを自主的に上映しようと動いたのが、小林一平さんでした。お父様の太平さんは、この作品の関川秀雄監督(東宝時代の同期に黒澤明監督がおられ、当時の代表作に『きけ わだつみの声』があり、社会問題を鋭く描く作品を発表しておられました)の補佐をされておられました。お父様を尊敬する一平さんは「この作品は広島の、日本の、世界の宝である。先ず、この作品を知ってもらうことが大切だ」と活動を開始されましたが、4年前心筋梗塞で急逝(68歳)され、その思いをご子息の開さんが引き継がれました。「若い世代に原爆について知ってもらいたい。この映画を継承していくことが大切だ」と考えて、各地で上映をすすめ、今年は全国11か所で上映されるそうです。

フィルムは1953年8月の完成から既に66年もの歳月が経ち、劣化の問題があり、修復してデジタル化するには費用がかかります。その費用を負担してくれるスポンサー探しをして下さったのが、3年前偶然この作品のことを知った映画プロデューサーの伊地知徹生さん。その彼の呼びかけに応じて下さったのがハリウッドに拠点を置く大手メディア会社で、この会社がデジタル化の資金を提供し、2017年にデジタルリマスター版が完成し、北米に配信されました。その後、映画はヨーロッパ、アジアと世界10カ国で上映され、今も続々と公開が続いているそうです。

世界中が核の脅威に緊張している今、世界で唯一の被爆国日本で、自ら被爆した人々も含む8万8千人もの広島の人々がボランティアで出演され、事実に基づき徹底的に再現して作られ、国立の映画アーカイブで保存されてたものを、どうして国の費用で修復して、広く世界に「原爆って、こんなに恐ろしいものなんですよ」と伝えるために動かなかったのでしょう。つくづく日本は情けない国になったなぁと思います。

この映画は1951(昭和26)年に発行された1冊の本『原爆の子 廣島の少年少女のうったえ』(岩波書店)を元に作られました。先日のブログで紹介した京都大学の黒田正利先生の昭和20年当用日記の8月6日、9日の記述にも全く新型爆弾投下のことは書いてありませんでしたが、当時の日本では、原爆がもたらした悲劇が広く知られていませんでした。占領した連合国はプレスコードでメディアを検閲していました。広島についての言論が全体として表に出ないようにアメリカは厳密に検閲を行っていました。1950年米ソ冷戦の対立激化の中、朝鮮戦争が始まり、アメリカのトルーマン大統領は原子爆弾を使用することも考慮中であると言及しました。

「No More Hiroshimas!」悲劇を繰り返してじてはならないと、自らも被爆した教育学者の長田  新さん(1887-1961)は、子どもの作文なら検閲に引っかからないだろうと考えて、教え子の楠 忠之さんに『原爆の子』の手記集めを手伝ってもらいました。当時大学生だった楠さんは地元の幟町小学校に依頼しに行き、体験談1000以上が集まりました。発行した本は27万部が売れ、日本中に原爆の悲惨さが知れ渡るきっかけになりました。手記を寄せた一人の中村巌さんは、本当の姿を見てもらいたいと長田さんに「映画を作って欲しい」と伝えました。長田さんが映画作りで頼ったのは、日本教職員組合でした。

元々は、戦後の日本を民主化するために置かれた日本教職員組合でしたが、朝鮮戦争が始まると「生徒を再び戦場に送るな」と政府と鋭く対立します。当時50万人いた組合員に対し、一人50円のカンパを募り、合計4千万円(今で言うと2億5千万円)が集まり、映画を作ります。当時は五社協定が結ばれていて、松竹専属の看板女優だった月丘夢路さんも余所の映画に出ることを会社から反対されました。けれども広島出身の月丘さんは、「あの悲惨さを何とか残し、それが大きな戦争の抑止になれば」と何度も何度も会社に頼んで、漸く無償で出演することができました。チラシにうつる女性教師の役です。

『海と毒薬』『黒部の太陽』で知られる熊井啓監督は、当時この作品の助監督を務めておられて、自宅に絵コンテ、シナリオなど貴重な資料を保存されていました。オープンセットは23か所もあり、壊れた街を描いたスケッチも残されていました。映画に用いたのは、被災当時身に付けていた人々の衣類や日用品、資材など数十万点に上ったそうです。広島市内で2カ月にわたって行われた撮影は、日を追うごとに何か協力したいという市民が増え、予定されていた子どもたちが歌をうたいながら原爆ドームに向かっていくシーンは急遽書き替えられ、大人も子どもも市民をあげて2万人もの人々が原爆ドームに向かう空前のスケールのラストシーンになりました。

日本映画史上空前のスケールで作られたにも関わらず、なぜ番組タイトルに「忘れられた…」とあるのかというと、1953年8月の完成後の試写会で、大手映画会社が「反米的だ。3か所カットしなければ上映できない」と上映を拒否しました。米ソ冷戦下で、アメリカは左翼や共産主義の取り締まりを強め、政府は日教組に強い圧力をかけていました。文部省は政治活動を禁止する意向を表明し、日教組と対立が深まっていました。メディアもアメリカとの間で火種になりそうなことは自主規制しようという空気が漂っていました。その空気は手記を寄せたり、映画に出演した子どもたちにも及び「赤の手先だ」と言われ、心ない批判を浴びせられたそうです。チラシ表下にもあるように1955年ベルリン国際映画祭で評価されたにも関わらず、最終的には、独立系映画館や自主上映会で細々と上映されただけで、やがて広島の人々の記憶からも忘れられていきました。

これを書きながら、現在の日本もあまり変わらないなぁという思いがします。様々なところで目に見えない圧力を受けているように感じ、自主規制していて、危なっかしいなと思います。せっかく新しく甦った『ひろしま』ですから、一人でも多くの人にご覧いただいて、平和について考える機会になれば良いなぁと思います。

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