おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.06.08column

第四の巨匠と讃えられた映画監督成瀬巳喜男の資料展を開催しています‼

成瀬資料展A - コピー

成瀬+村川A - コピー

6月3日から再スタートしたおもちゃ映画ミュージアムです。碁盤の目の京都にしては珍しい斜めのバス通り「後院通」を行く人も、「STAY HOME」解禁後、少しずつ増えているようには見えます。でも自分自身もそうですが、感染を懸念して皆さん用心深くなっていますので、来館者が戻ったとは言いがたい状況ではあります。ポツリ、ポツリではありますが、目的を持って足を運んで下さるお客様は、三波春夫さんのセリフのように「神様」に見えます。そうした方に見て貰えれば、企画して良かったと思えます。

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COVID-19が騒がれ始めた寒い日々から月日が経ち、裏庭は植物の緑が濃くなっています。昨年3月アニメワークショップの折りに「四つ葉のクローバーがたくさん生えている」と参加者の方に喜んで貰ったクローバーは、このコロナ禍を予知したかのように姿を消してはいますが、普通のクローバーは生き延び、シロツメクサがそこここに咲いています。もうすぐ露紫も可憐な花を咲かせてくれることでしょう。型染め友禅をやっていたこの家に相応しく、昨年から自生。写真のように、今は感染予防も兼ねて、網戸にして、風通しを良くしています。

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公益財団法人川喜多記念映画文化財団さんから、成瀬監督代表作品『浮雲』などのポスターとプレスシート類、台本は『めし』(1951)、『おかあさん』(1952)、『晩菊』(1954)、『浮雲』(1955)、『驟雨』(1956)、『流れる』(1956)、『女が階段をあがる時』(1960)、『妻として女として』(1961)、『放浪記』(1962)、『乱れる』(1964)をお借りしました。台本に何か書き込みがあるかと期待していましたが、綺麗なままでした。

 今、これを書きながら、「そういえば直筆ものがない」ということに遅まきながら気がつきました。「成瀬巳喜男監督はどのような文字を書かれたのかなぁ」と思い、今読んでいる美術監督中古 智さんの『成瀬巳喜男の設計』(1990年、筑摩書房)に載っている『コタンの口笛』の台本を紹介しようと思いました。けれども、どこにも明確に「成瀬直筆」とは書いていないので、もうひとかた資料をお貸しくださった日本映画史家の本地先生にも尋ねてみました。

……そういえば成瀬の自筆はこれまで、注意もしてこなかったこともございますが、余り目にした記憶がありません。
後半生は、自身の監督作も、脚本、脚色はほとんど他の人の手によるものですし、それ以外にも、成瀬の自筆「原稿」というものを見たことが無いかも知れません。……
 
そして、参考にと
……『映画読本 成瀬巳喜男』(95年、フィルムアート社)を見ましたら、「浮雲」の書入れ台本が載っておりましたので添付致します。これと比較しますと『コタンの口笛』と同じ筆跡ですね(「る」や「の」は同じ書き方であることが判ります)。……
 
と返事を頂戴しました。お尋ねする前に、ネットで何か手がかりがないかと検索したのですが、調べ方が下手なのか、見つけることができませんでした。二つを見比べると、本地先生が仰るとおり「る」や「の」の書き方が同じとわかり、併せてご覧頂こうと掲示しました。文字は人柄も表すと思いますので。
 
仕事で組んだ金子正且さんは、『プロデューサー 金子正且の仕事』の中で、成瀬監督が台本を絶対に人に見せなかったことや、脚本を直すことも絶対せず、削ることが成瀬監督の仕事の特徴だと書いておられますが、この2冊に載っている台本を見ると、なるほどなぁと思います。キャストやスタッフの創作意欲が失われることを避けたかったという思いも分かりますが、成瀬監督ご自身の無口で、繊細さゆえに残していないのかもしれないと、ふと思いました。

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 本地陽彦先生からは、『勝利の日まで』〔1945)、『山の音』(1954)、『浮雲』(1955)、『女が階段を上る時』〔1960)のスチール写真や、『放浪記』(1962)のソノシート、パンフレット、プレスシートなどをお借りしました。台本は全てコピーするわけにも行かず、そのまま展示していますが、パンフレットなどは複写して、ファイルに入れましたので、ご自由にご覧下さい。

もう一つ、京都の河原町や新京極にあった松竹系映画館のショーウインドーに掲示した手描きポスター5枚〔A3サイズ)も掲示しました。映画看板を担っていた「タケマツ画房」創立者の一人、竹田猪八郎さんの手によるものです。『押切新婚記』(1930)、『蝕める春』(1932 )、『生さぬ仲』(1932 )、『君と別れて』(1933)、『夜ごとの夢』(1933)です。色使いとお洒落な文字がモボ・モガが闊歩した時代の雰囲気を伝えます。失われている作品が多いなか、こうして残った資料類から、日本映画が盛んだった往時を振り返ってみるのも良いと思います。

最終日の28日(日)13時半から、映画評論家で元城西大学教授の村川 英先生に「成瀬映画の女優たち 成瀬映画の技法とデティール」と題してお話ししていただきます。成瀬の年表とキャプションを書くに際し、少しばかり本を読みながら、『女が階段を上る時』など「見たい」と思う作品が次々出てきました。今月DVDが出る『驟雨』の原 節子さんは、貧乏所帯の主婦の役だそうですから、小津監督の原 節子さんとの違いも楽しみたいです。

その原 節子さんは、今年6月17日で生誕100年の節目。昨日京都の文化博物館でPCL時代、成瀬監督が親しくしていたという山中貞雄監督の『河内山宗俊』を見てきましたが、原さんは上品で、知的で、とても美しかったです。

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5月29日付け夕刊フジの記事をTwitterで目にして知ったことですが、1962年東宝創立30周年記念映画、稲垣浩監督『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(昭和37年度芸術祭参加作品、カラー)で大石内蔵助の妻「りく」の役を演じたのを最後に、原 節子さんはひっそりとスクリーンの前から姿を消されたそうです。今回本地先生からお借りした『放浪記』パンフレット最後の頁に、その作品の広告が載っていました。

この夕刊フジの記事は最後を「小津が63年に死去した時、本名の會田昌子でひそかに弔問に訪れ、新聞のインタビューに『せめてもう一度、先生とご一緒に精一杯の仕事ができたらと、それだけが本当に心残り」と語ったが、これこそ引退を決意させた本当の理由ではないか」と結んでいます。本当のところはどうなのでしょう?

DSC_1761村川先生のお話は午後ですが、午前中は同じく3日から再開した大阪芸大映像学科学生映画「THE FIRST PICTURES SHOW1971-2020」を開館日10時半から毎朝上映していますので、それぞれの作品の紹介展示もしています。映像学科の懐かしい写真はファイルに入れていますので、これもご自由に手にしてご覧下さい。また卒業生の方で懐かしい写真をお持ちでしたら、ぜひお送りください。

「THE FIRST PICTURES SHOW1971-2020」は、当日受付(入館料込1000円)も大丈夫ですが、村川先生の講演会(入館料込1000円)は事前予約が必要です。3密を防ぐため、いつもの半分の定員15名にしています。ご来場の際は、マスク着用でお願いいたします。入り口に設置したアルコールで手指の消毒にもご協力をよろしくお願いいたします。毎回イベント後に交流会を設けていますが、感染予防のため当分は見合わせます。悪しからず、ご了承くださいませ。

なかなか出かけるのが困難な状況ではありますが、よければ皆様、どうぞお越し下さい。お待ちしております‼

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