おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.12.12column

“目玉の松ちゃん”最晩年『特作 忠臣蔵』を基に、94年前 中学生が描いたペン画‼

熊本日日新聞から、今日届いた紙面。もうすぐ赤穂浪士の討ち入りがあった12月14日なので、いつ載るかとワクワクしていましたが、少し早い10日付け紙面の芸能面でとても大きな扱いでした。

1926年、池田富保監督は、“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助主演でお馴染みの『忠臣蔵』を撮ります。従来の歌舞伎調ではなく、リアリズムを追求しようとした演出で、タイトルには『実録忠臣蔵』と付されました。2年後にマキノ(牧野)省三監督も新劇の俳優を起用して『忠魂義烈実録忠臣蔵』を撮りました。一般的に『実録忠臣蔵』といえば、後者のマキノ映画を指すようです。

ともあれ、大人にも子どもにも大変な人気だった“目玉の松ちゃん”が主演した『忠臣蔵』は何回も上映され、新味を与えようと“特作”と付けて劇場で上映されていたのを、当時中学生だった芹川文彰さんがご覧になって、得意のペンで描かれたのでしょう。

スキャンしてデータでお送り頂いたペン画を見ると、とても中学生とは思えない巧みな絵です。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)へ進まれたそうですが、病気で退学して挫折を味わっておられます。「たら、れば」を言っても始まりませんが、そのまま絵の勉強を続けておられたなら、どのような傑作を世に残されたでしょう。惜しいです。

文末に「山鹿は義士の遺髪をまつる土地柄」と書いてあります。地元の人々には周知のことなのでしょうけど、余りものを知らない私は、どんな土地柄か気になって検索してみました。熊本県山鹿市にある日輪寺境内に、赤穂義士17名の遺髪塔があるそうです。元禄15(1702)年12月14日吉良邸に討ち入りに行った大石内蔵助良雄を始めとする義士47名は、見事上野介の首を取り本懐を遂げます。

その後、義士たちは細川家、松平家、毛利家、水野家にお預けになり、芝白金(今の東京都港区)の細川藩邸にお預けになったのは、赤穂藩浅野家筆頭家老だった大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、間瀬久太夫正明、小野寺十内秀和、磯貝十郎左衛門正久、堀部弥兵衛金丸、近松勘六行重、富森助右衛門正因、潮田又之丞高教、赤埴源蔵重賢、奥田孫太夫重盛、矢田五郎右衛門助武、大石瀬左衛門信清、早水藤左衛門満尭、間喜兵衛光延。

内蔵助等を預かった細川家は、とても名誉なことだと喜び、綱利公自ら義士たちを出迎え、「武士の鑑だ」と褒め称えました。細川家では19名に義士接伴役を申し付け、義士たちを篤くもてなしました。その義士接伴役の一人、堀内伝右衛門(1645-1727)は、義士たちに特別な思いを抱き、彼らが切腹するまでの50日間、もてなしに心を込めて全集中。義士たちから聞いた話を『堀内伝右衛門覚書』として残しています。

義士たちは、遺言通り浅野家墓所泉岳寺に葬られましたが、いよいよ切腹の日が近付いた頃、伝右衛門は「せめて遺髪なりとも」と願い出て、もらい受けることができました。元禄16年2月4日義士たちは切腹。役目を終えた伝右衛門は義士たちの遺髪を知行地である山鹿に持ち帰り、菩提寺である日輪寺に遺髪塔を建立し、亡くなるまで守り続けました。

遺髪塔は、今も地元の堀内組の方々によって守り続けられ、2月4日の義士命日には「義士まつり」が行われ、遺髪塔の前で慰霊祭が営まれているそうです。こういう土地柄もあることから、中学生だった文彰さんの絵心がいっそう触発されたのでしょう。

記事にある「弁士付きの復元映画上映会」については、事件の端緒となった主君浅野内匠頭長矩が江戸城「松之廊下」で接待役指南役の吉良上野介義央に斬りかかったのが、元禄14年3月14日(旧暦)で、今の暦に直すと1701年4月21日。じゃ、その日に近い4月16日(土)に、米田伊一郎さんから寄贈して頂いた9.5ミリ短縮版池田富保監督『忠臣蔵』を坂本頼光さんの活弁で上映しようということにしました。

頼光さんに初めてこの作品を上映して頂いたのは、このフィルムが見つかった2015年12月12日、5年前の今日のことです。尾上松之助さんのご遺族が「初めて動く松ちゃんを見た」と喜んでくださって感動したことを、今も鮮やかに覚えています。

ペン画の展示につきましては、これから甥の英治さんと相談しながら、進めていきますが、4月1日からを考えています。詳細は決まり次第、改めてご案内いたしますので、楽しみにお待ち下さい‼

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