おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.04.14column

芹川文彰少年が模写した伊藤彦造ペン画の『少年倶楽部』掲載年・号数が判明しました‼

開催中の「ペン画で甦る尾上松之助最晩年『忠臣蔵』展」では、当時15歳から18歳の誕生日目前までかかって、ペン画で、この映画『忠臣蔵』(1926年4月1日東京で公開)を再構築しようと約500コマを描き続けた芹川文彰さん(1911-1984)の作品を掲示しています。95年前、熊本県の映画館で何度ご覧になったのかは存じませんが、絵の上手さだけではなく、最後まで描き通したことも、記憶力の凄さにも驚きます。長期にわたって描いていて、その技法もいろいろ試している様子がうかがえます。

これは、先の弁士・片岡一郎コレクション展「活動写真弁士の世界展」で掲示した手のひらサイズのパンフレットのようなもの。東京の日本活動写真株式会社(日活)が大正15(1926)年3月15日印刷納本、3月20日に発行したものです。表紙も含め24場面の写真(1場面1写真)が載っていて、それぞれに簡単なあらすじが書いてあります。

この当時は映画鑑賞の手引き、あるいは思い出として、どのようなものを一般の人が手にすることが出来たのかは分かりませんが、たとえ上掲のようなパンフレットを入手して参照したとしても、全20巻に及ぶ長編映画のごく一部にすぎません。

さて、綴られていた「ペン画帖」には、他にも「1926.11.14」の日付がある『忠臣蔵』以外を描いた作品や、1927年4月19日に公開された嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)主演『角兵衛獅子 鞍馬天狗異聞』のペン画、日活秋期超特作映画『修羅城』の作品もありますが、何より目を引くのは、『少年倶楽部』連載小説の挿絵で人気を博した伊藤彦造のペン画を模写した3枚です。そのうちの1枚に「1924」と書いてあるので、13歳の時の模写絵なら凄い‼と驚きました。しかしながら、ネット検索すると伊藤彦造のデビューは大正14(1925)年だと書いてあるので、ひょっとしたら本人の年号書き誤りではないかと思い、漫画の専門家の人びとにお知恵を拝借しました。

芹川文彰少年が「祥」のペンネームを使って模写(№174)した元絵は、『少年倶楽部』1927年7月号掲載「角兵衛獅子」(大佛次郎/作)の伊藤彦造の挿絵でした。1927年のうちのことだろうと思いますが、となると16歳。

『少年倶楽部』1927年1月号に掲載された「討ち得ぬ仇」(香西凌宵/作)の伊藤彦造の挿絵。文彰少年が模写(№177)したのは「昭和2年11月1日」なので、16歳。

こちらは、『少年倶楽部』1928年1月号に掲載された「辻斬錦切れ集め」(下村悦夫/作)の伊藤彦造の挿絵。文彰少年が模写(№176)したのは「昭和3年5月」なので、16歳11ヶ月。

以上の伊藤彦造が描いた3作品の特定につきましては、橋本関雪記念館の橋本眞次さま、明治大学米澤嘉博記念図書館・現代マンガ図書館の三崎さま、弥生美術館の中村圭子さまにお知恵を拝借しました。この場をお借りして心より御礼を申し上げます。

元絵と見比べると、文彰少年が大変高い技術を持っておられたことがおわかり頂けると思います。甥の英治さんにお聞きしたところ、和室に長机を置いて、机の上にインクビンを置き、それでインクを付けたペンで、静かに絵を描いていた姿を覚えているそうです。参考にされた本や日記、亡くなられるまで描かれた絵などがないかお聞きしたところ、今のところは見つかっていないそうです。情報が発達した今の時代に生まれておられたら、きっと熊本県山鹿市に埋もれたままにならず注目され、別の人生が待ち受けていたのかもしれません。でも、今回の展覧会がひとつの契機になって、芹川文彰さんの評価につながれば良いなぁと願っています。

以上のようなことから、映画からのアプローチばかりでなく、マンガの視点からこのペン画を見ても面白いのではないかと思います。京都精華大学マンガ学部准教授/国際マンガ研究センター専任教員の伊藤遊先生は、「『劇画』という概念は、この頃まだありません。『正チャンの冒険』の椛島勝一(ペンネームは東風人)は超絶リアルなペン画と、『正チャン』のようなウィンザー・マッケイを彷彿とさせるコミックス的画風を使い分けた作家ですが、芹川文彰さんのコママンガには、2つの画風が混在しているところが面白いと思います。なお、1926年には、椛島が『ペン画の描き方』を著しています。このようなマンガ的な絵を描いていたプロではない人たちがたくさん存在していたことが興味深いです。こうした『マンガを描く読者』の層の厚さこそ、日本のマンガ文化の特徴の一つだと考えています」とコメントを寄せていただきました。

また、「横置き1頁に4コマずつ」の構成が『正チャンの冒険』の影響を受けているのではないか?とか、「動きを示す流線や足跡を示す煙などが、漫画に特有の表現だ」と教えて下さった方もおられました。

「吹き出し」の表現はたくさん見られ、やはり『正チャンの冒険』の影響がうかがわれます。下掲写真のように『正チャンの冒険』は、尾付き角形の「吹き出し」を使っていて、これが日本の漫画に初めて登場した「吹き出し」だと言われています。1924年7月から25年10月にかけて、『正チャンの冒険』全7巻が朝日新聞社から単行本が刊行されています。

参考に載せた当館所蔵の上掲本は、「赤本」の海賊版だそうです。「漫画的表現はストーリーを進める部分に多く、見せ場はアップの止め絵となっているのが、作者が工夫した点かもしれません」と、このペン画の印象を話してくださった方もおられます。

ぜひ漫画研究者の方に見に来て頂きたいです。文彰少年が、どのような表現に関心を持ち、自分で試して描いたのか興味深いです。英治さんによれば、文彰少年は書も大変上手だったそうで、習字の先生が自分より上手いと、提出した書には隙間がないくらい朱で丸が描かれていたそうです。病気になってせっかく入学した東京美術学校を中退し、故郷に戻ってしまいましたが、元気だったら挿絵画家、劇画作者、あるいは書家として大成していたのかも知れませんね。詮無いことですが、「たら、れば」を今回も思わずにはおれず、素晴らしい才能故に惜しいです。

参考になればと、手元にあった『名作挿絵全集』(大正と昭和戦前の時代小説編)を展示に加えました。開いている頁は、いずれも伊藤彦造の挿絵です。左は1~3月活動写真弁士の資料展の折りにSPレコードを展示し聴いて貰った『修羅八荒』(行友李風作)の挿絵。小村雪岱や木村荘八の挿絵も含まれています。

 

 

 

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