おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.06.03column

5月22日開催トークイベント「日本に映画を持ち込んだ男たち~荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一~」の振り返り~Part2

5月22日の振り返り原稿トップバッターは、荒木和一に親しみを覚えて小説『フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一』(幻戯書房)を昨年12月20日に出版された武部好伸さんです。2016年10月に、これまでは京都が映画発祥地と言われていたが、よくよく調べた結果、荒木和一がアメリカのエジソン社から導入したヴァイタスコープを用いて難波で行った試写の方が、稲畑勝太郎によるフランスリュミエール社のシネマトグラフを用いて京都で行った試写よりも1か月以上早かったという『大阪「映画」事始め』(彩流社)を出版され、当館でも出版記念トークイベントを2016年12月4日に開催しました。この時の様子はこちらで書いています。

本は反響を呼び、「小説にしたら良い」と幾人もの人から声を掛けられたのだそうです。これまで映画エッセーや「ケルト」紀行シリーズなど数多くのエッセイ本を出されていますが、『フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一』で小説家デビューされました。これからはペンネーム東 龍造(ひがし りゅうぞう)としても一層の活躍を期待しています。

では、武部さんの振り返り記事をどうぞ‼

…………………

「理屈抜きに画期的なイベントでした!」

武部好伸(作家・エッセイスト)

 

「12月17日に入江さんとお会いし、四方山話に花が咲きました。その話の1つが、5月に実施を考えております日本映画最初期に活躍した人物を取り上げてのトークイベントです。稲畑勝太郎と横田永之助を長谷さんに、荒木和一を武部さんに、河浦謙一を入江さんにお話しいただきたいです」

こんなメールが、昨年12月21日、太田文代さんから届きました。そのころ、ぼくは筆名の東龍造で編んだ初小説『フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一』(幻戯書房)を上梓したばかりで、何かと慌ただしくしていたんですが、「ほーっ、オモロイ企画やなぁ」と即、賛同しました。そして年が明けると、長谷さん、入江さん、文代さん、そしてぼくの4人で熱いメールのやり取りが続き、どんどん意欲が高まってきました。

ただ、長谷さんと入江さんはアカデミックに取り組んではるのに対し、ぼくはあくまでも一介の物書きです。それでもええんかな~と心配していたんですが、全くノープロブレムとのこと。よっしゃ! それなら、新たに入手した資料や写真を公表し、もう一度、小説の主人公でもある荒木和一という人物を紹介しようと思ったわけです。

で、本番を迎えました。ここで登壇するのは久しぶりとあって、武者震いしました(ウソです笑)。持ち時間20分が30分以上になってしまい、申し訳なかったです。何せパワポのデータが62枚もあり、いつも以上のマシンガントークでも時間内に収められなかった。自宅でちゃんとリハーサルしておけばよかったと反省しきり。いつも行き当たりばったりなんですわ(笑)。

イチオシの新資料は、大正15(1925)年7月2日付けのエジソンから和一さんに送られてきた手紙です。エジソンが78歳、和一さんが53歳のとき。前半は、大大阪記念博覧会(同年3月15日~4月30日)にエジソン社の商品を展示したことへの謝意。後半は、和一さんがニューヨークで映写機を購入したのは、30年前か31年前のどちらであるのか教えてほしい。それは「のぞき穴式装置」(キネトスコープ)か、「スクリーンに映す装置」(ヴァイタスコープ)か、どちらであったのか――という質問です。正しくは、29年前の明治29(1896)年8月のことで、装置はヴァイタスコープ。

24歳の和一さんがヴァイタスコープ欲しさに49歳の発明王エジソンに直談判したのを機に、2人は交流を続け、手紙のやり取りを行っていた――とお孫さんとひ孫さんから聞いていました。しかし現物の手紙を見たことがないので、果たして、ホンマかいなと思っていたのですが(笑)、この手紙を入手し、間違いないことがわかりました。しかも内容からして、かなり親密な間柄だったことも判明しました。だから、この手紙は和一さんを知る上で一級の資料だと自負しています。

うれしかったことは、2週間前に東京の国立映画アーカイブで開催された特別企画『発掘された映画たち2022』で、「荒木和一/横田永之助コレクション」のフィルム上映+講演後、和一さんのお孫さんである入交信子さんから新たに7本の8ミリフィルムの提供があったことです。ホンマにびっくりしました! それを何とか今回のイベントで初上映させたいと思い、館長の太田米男さんにお願いし、迅速にデジタル化を完了させてくれはりました。ホンマによかった。ありがとうございました!

このようにアクションを起こすと、何かがありますね。和一さんをサポートし続けた中座の座主、三河彦治さんは、顔写真はおろか、ほとんど資料がなかったのですが、上記のフィルム提供のあと、彦治さんのひ孫さんと出会え、後日、顔写真を送っていただきました。その特ダネ写真(笑)を披露できたのも喜ばしいことでした。

  (大正元年12月建立。5月8日国立映画アーカイブ登壇後に知り合った曾孫さんから教わった墓所)

彦治さんのお墓が大阪市設南霊園(大阪市阿倍野区)にあると聞き、先日、お参りしました。稲畑勝太郎さんのシネマトグラフを南地演舞場で初興行した際に関与した伝説的な興行師、奥田弁次郎さんの墓所のすぐ北側で、和一さんは70メートルほど離れたところで永眠してはります。何かご縁を感じますね……。

長谷さんと入江さんのお話、非常に興味深かったです。ぼくは元新聞記者とあって、「取材」というスタンスでやっていますが、お2人はガチンコの「研究・調査」で、やっぱりアカデミックな研究者はちゃうなと思った次第です。

荒木和一、稲畑勝太郎、河浦謙一、そこに新居商会の柴田忠次郎が入れば、申し分なかったのですが、映画史研究の御大、本地陽彦さんいわく、「新居商会を本気で研究している者はいない」とのことで、まぁしゃないですね。

活動写真という〈文明の利器〉に惹かれ、それを日本で普及させるために惜しみなくエネルギーを注いだ3人の生きざまの一端が浮き彫りにされたと思っています。その生きざまこそが明治男のダンディズムです! 現在を生きるぼくら3人がそろって、それぞれのダンディズムを紹介できて、ホンマによかったと思っています。理屈抜きに画期的なイベントでした。

最後に、参加した方々、太田ご夫婦、頼もしい存在の本地さん、ありがとうございました!

皆さん、とても熱心に武部さんの発表を聞いておられます。それぞれの方の地道な研究成果を僅か「20分にギュッとまとめて」と無理なお願いをしましたから、本当に申し訳ないことでした。

鼎談になると、俄然武部さんのサービス精神発揮。大いに楽しませていただきました。2017年1月28日に開催した「反論!…日本『映画』事始め」の時は、後輩の読売新聞記者森恭彦さんが、前年12月4日の武部さんの発表に反論する形で講演の後、二人で討論する真面目なようで愉快なトークイベントを繰り広げました。

これは、その後の懇親会での様子。新型コロナウイルス感染拡大を防止するため、しばらく懇親会はお預け状態ですが、武部さんのギター演奏で歌も歌って実に賑やかな会でした。以前のように安心して懇親会ができていたら、22日もこの再現になっていたことでしょう。つい先日5月5日にお亡くなりになった水口薫さんの姿も見えますね。こうして、一つ一つ思い出が積み重なっていきます。

この『映画百年 映画はこうして始まった』は1997年5月15日キネマ旬報社から発行。執筆者は当時読売新聞記者だった武部好伸さんと後輩の森恭彦さんたち文化部の面々。そこまでは存じていたのですが、この本の実に半分を占める「日本映画史年表」(自・明治29年~至・平成7年。128~263頁)を執筆されたのが、日本映画史家本地陽彦さんだったことを、今回の連絡メールのやり取りで漸く気が付きました。次の振り返り記事は、その本地陽彦さんです。

 

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