おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.01.30column

第二次京都前原中隊と原谷開拓

たまたま27日付け京都新聞市民版「まちかど」で知った催し「写真と映像から学ぶ原谷の歴史展」に29日行ってきました。立命館大学北村順生先生とそのゼミ生の主催で、元洛北開拓農業協同組合会長前原英彦さんが原谷の歴史についてお話をされるということで興味を持ちました。2020年夏に「『満洲国』って、知っていますか?」展をした時に、金閣寺北西に位置する京都市北区原谷の地域が、満蒙開拓団の人々が戦後引き揚げてきて再入植して開拓した地域だと知りました。展示を見に来て下さった立命館大学国際平和ミュージアムの学芸員さんから前原英彦さんのことを教えて貰い、連絡をして「お話を聞きたい」とお願いしたにも関わらず、COVID-19があれよあれよという間に世界中に感染拡大して、訪問するチャンスを今まで逃していました。

昨年春、前原さんから、執筆された『原谷の歴史ー洛北開拓農業協同組合60年の歩み 原谷弁財天の由緒』(2022年3月3日発行)をお送りいただいてもいましたので、この機を逃してはならないと、わら天神前で市バスを乗り継いで写真の金閣原谷会館(北区大北山原谷乾谷)へ。

長年にわたり、公民館が欲しいと住民の方々が願い、その方たちの寄付金や援助金などで2019年に建てられた木の温もりが感じられる美しい公民館。翌年にウッドデザイン賞を受賞しています。

私が一番目を引いたのは、右端に少し写り込んでいる映像。画面中央に大きな文字で「府政映画」、右下に「京都府」とあり、次の画面で「第(実際は略字)十集」とあり、次の画面に「カメラルポ 原谷開拓地を訪ねて」とタイトルが出てきます。1995年に作られた5分30秒、モノラル。『府政映画』のことを初めて知ったこともあり、北村先生に「この映像はどうされたのですか?」と尋ねたところ、前原さんが持っておられた16ミリフィルムをデジタル化されたのだそうです。

少なくとも府によるカメラルポの映像はこの他にも9作品が作られていたわけで、京都府文化博物館映像資料室の森脇清隆さんに保存されているか早速確認したところ、「『府政映画』は初耳です。府も市もあまり変わりなく、制作したニュース系の映像はしっかり残していない状況です。伝統産業記録映画は少し当館にも保存しているのですが」という返事でした。他の映像に何が映っていたのか、現存しているのかなど大いに気になります。映像を保存しておけば、このように後の世の人々の役に立つという事例でしょう。

イベントのことは今朝の京都新聞市民版に大きな扱いで掲載され、メモを取る私の姿も写り込んでいます。原谷の歴史については、前原さんが一番古くから地域のことをよくご存じ。お話の内容はほとんどが、戦後原谷に入植されて以降のことでした。けれども私の関心は、満洲へ渡られてから、敗戦により引き揚げてきて、その後原谷に再入植されるまでのことでした。それでイベント終了後に個別にお話を聞かせていただくチャンスもありました。

1945年8月15日の晩、第二次京都前原中隊長だったお父様が、目の前に「最後の時に」と軍刀と銃を出したこと。翌16日「ソ連兵がやってくるから、ソ連の旗を作れ」とお父様から言われて旗を作ったこと。翌17日午前10時、ソ連兵が入ってきて作ったばかりの旗で迎えたこと。翌18日軒下に穴を掘って、軍刀と銃を油紙に包んで埋めたこと。前原さんは「小学5年生だったこの4日間の記憶が未だに残っている」と話しておられました。突如やってきたソ連兵に怯えて逃げ惑うイメージが強かったのですが、ソ連の旗を手作りして迎える場面もあったのだと知りました。

1942(昭和17)年4月、満洲に渡った第二次京都前原中隊の皆さん。これに先立ち、昭和13年混成京都義勇隊開拓団が渡満し、14年、15年と続き、昭和16年第一次京都芦田中隊、昭和17年の前原中隊、昭和18年大槻中隊、昭和19年藤田中隊、昭和20年第五次京都中村中隊まで続きました。前原さんにお聞きしたところ、京都、奈良、和歌山、大阪からの混成で送られた中隊だったようです。

これも昭和17年に撮影された第二次京都前原中隊の皆さん。

同様に昭和17年に撮影された第二次京都前原中隊の皆さん。前原さんに教えて貰ったことですが、京都霊山護国神社(京都市東山区)に「満洲開拓青年義勇隊碑」があり、京都府から送出された2000名の事績を顕彰し殉難隊員慰霊のために戦後25年を経て建碑されたようです。

ネットで検索して拝借した画像です。「満洲開拓青少年義勇軍」とも呼ばれる彼らは、14~15歳というまだ子どもですが、内地で農作業と武器を扱う訓練を受けたのち満洲へ渡って行き、食糧増産と北辺の警備を担いました。2020年原谷から見に来て下さった男性が、「自分も応募したけど、痩せていて不合格だった。合格した友達はみんな満洲で亡くなった」とお話しされていたことを思い出します。

現在88歳の前原さんは、京都府天田郡三岳村で出生。1942年4月、第二次京都前原中隊長のお父様と一緒に家族で渡満し、黒河在満国民学校2年に転校。戦後はご両親と一緒に原谷へ入植されました。1948(昭和23)年10月12日のことでした。翌年にも入植があり、当初は開拓入植者19戸、既存住民6戸の25戸からなる集落でした。

昭和34年の地図ですが、赤い●は入植者の家。先陣12人のうち2人が厳しい開拓生活に耐えかねて翌春までに姿を消したそうです。開拓地以外が赤い斜線部分。工場の進出や住宅地化が進み、現在では1500世帯、4000人以上の住民が住む地域に変貌しています。

入植に際し、一人当たり、普通の畑が1町5反(約1.5ha)、宅地180坪(約595㎡)、薪炭採草地5反(約0.5ha)貰えたそうです。お話を聞きながら、手元にある満州三江省樺川県千振開拓団の映像と、敗戦後、那須高原に再入植した千振の人々を撮ったNHKのドキュメンタリータッチの番組『開拓者たち』の映像を思い浮かべました。大変過酷な状況下で千振の人々は、満洲での「千振」の名称を那須でもそのまま引き継いで、千振村として団結しながら再開拓していった人々の証言を紹介していました。

それがあったので、原谷も満洲での団結力がそのまま帰国後も継続しているのだとばかり思っていましたが、原谷の場合は1948(昭和23)年10月12日に京都府開拓課に於いて、入植希望者の選考会があり、選ばれた12名が原谷入植と決まったのでした。以前、京都部南部の城陽市内にも満洲からの引揚者が住む地域があり、そこから原谷へ入植された人がいると耳にしたことがあったので、その方についても前原さんに尋ねましたら、「それは平野さんのことだ」と教えて下さいました。

金閣原谷会館の前に原谷中央公園があり、その一角に1963年11月に建立された「開拓魂」の石碑があります。

その背面に刻まれた名前。前原さんによれば、上段に第一次入植者、次の段に補充された第二次の人々の名前が載っているそうです。その中に確かに「平野辰男」さんのお名前がありました。みんなで協力して「55haを拓いて、原谷地区の町づくりを完成させた」と説明版にあります。19戸入植した中で、現在も残っているのは少ししかおられないそうです。

子どもの頃を思い出しながら、懐かしそうに話をしておられました。ここから衣笠小学校まで毎日歩いて1時間かけて行ったそうです。御室仁和寺のところから坂道をくねくね曲がりながら往復するのは、今だって随分大変だなあとバスの中から見ておりました。

右の写真中央の広場が原谷中央公園。その左の建物は農協。入植して6日後に「洛北開拓農業協同組合」を設立されています。左の牛を飼っている場所が、今の金閣原谷会館なのだそうです。畜産、果樹、野菜、果物、根菜、穀類を育てながらみんなで一生懸命開拓した原谷地区は、日本各地に600余りある開拓地区の中でも、都市近郊型開拓のモデルケースとなって、国内外から視察団が多数訪れたそうです。「原谷は桜の季節が美しい」と教えて貰ったことがあります。もうバスでの行き方が分かったので、今度は桜の季節に訪問して、原谷弁財天様にもお参りしてこようと思います。

ずっと原谷開拓団のことが気になっていたので、前原さんから直接お話をお聞きすることが出来て本当に良かったです。前原さんには、健康に気を付け乍ら、これからも地域の歴史を語り継いでいってもらいたいなぁと思います。

 

 

 

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