おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2025.02.12column

当館に関連した新聞記事4つ~その4

9日朝、原稿を書かれた熊本日日新聞元記者松尾正一さんから届いた新聞記事です。松尾さんの熱意で掲載されてとても嬉しいです💗

活弁上演会が開催された昨年12月8日に、熊本県から貴重なキネマ画所有者の芹川英治様ご夫妻と一緒に会場の同志社大学今出川キャンパス良心館104教室に駆け付けて下さいました。記事で知りましたが、熊本大学に国際マンガ学教育研究センターができ、熊本県立高森高校に全国の公立で初めてとなるマンガ学科が設けられるなど、熊本でマンガに対する関心が高まっているのですね。

そうした新しい動向にあって、この日の催しで、マンガ史に詳しい伊藤遊京都精華大学マンガ研究センター特任准教授が「マンガ史的に芹川版『忠臣蔵』は極めて重要なものである」とはっきり発言されたのは、企画した者としてとても嬉しく思いました。長きにわたり芹川さんのお手元で大切に保管されてきたこのキネマ画帖『忠臣蔵』が、郷土の熊本でこれから活かされることを願います。

後列左端が松尾さん、次いでキネマ画所有者の芹川英治様ご夫妻です。太田の隣の背の高い男性が記事にも登場する「人気弁士の坂本頼光」さん、「忠臣蔵」ならこの方に語って貰いたいと前年からオファーしていた児玉竜一早稲田大学演劇博物館長、3回目となる連携事業を叶えて下さった小黒純同志社大学ジャーナリズム・メディア・アーカイブス研究センター長です。前列左端が電子ピアノで即興演奏して『忠臣蔵』上演を盛り上げて下さった天宮遥さん、そしてマンガ研究者の視点から芹川文彰さんのキネマ画を評価して下さった伊藤遊先生、そして企画した私です。もう御一方、写真を中心とした視覚文化とメディアの歴史や理論を研究されている佐藤守弘同志社大学教授が伊藤先生との対談「静止した映画・動く動画」に登壇して頂きました。佐藤先生には進行役も務めて頂きましたのに、集合写真に写っていなくて申し訳ございません💦

お客様から「とても良い催しだった」という声をたくさん頂戴しました。この日の参加者は関係者を除いて119名。北は北海道、南は沖縄、関東、中部、近畿一円と広範囲からお越しいただき、誠にありがとうございました。撮影隊などのスタッフも含め大人数でしたので、小黒先生の機転で大きな教室を確保して頂き、良かったです。

約100年前、山鹿市にお住まいだった芹川文彰さんが、1926年に公開された尾上松之助最晩年の主演映画『忠臣蔵』をご覧になって、記憶だけをもとに当時15歳から18歳誕生日直前までの日々を費やして描ききった約500コマのキネマ画『忠臣蔵』。2020年当時熊本日日新聞の記者だった松尾さんからの問い合わせで、その存在を知った時から「もっとこの絵のことを広く知って貰いたい。それだけの価値がある」と思い、原画をお借りして、2021年4月1日~5月31日、12月1日~26日と2回展覧会をしました。けれども生憎のコロナ禍に遭遇、思うように発信できず忸怩たる思いできました。

そんな折に、坂本頼光さんの活動で怪奇長編紙芝居『猫三味線』全巻通し口演(約600コマ、3時間)のことを知りました。「じゃ、いけるのじゃないかしら」と自分勝手なアイデアが思い浮かびました。2021年12月18日芹川少年が見たのと同じ『忠臣蔵』のパテ・ベビー版(家庭用に販売された短縮版、66分)で活弁上映を実施。東京、赤穂、山鹿、京都の義士祭の報告を各地の方にして貰い、そのノリで、全くの即興で「天の巻」100コマを坂本さんに口演してもらいました。いつもの無茶ぶりで皆さんに迷惑をおかけしましたが、これが大変に面白くて大拍手喝采。

そして「Arts Aid KTOTO」の補助事業に採択されて2024年の実施に至りました。忙しい坂本さんに編集もお願いしてしまいましたが、無理を叶えてくだり深く感謝しています。

12月8日は最初に児玉竜一先生に「忠臣蔵文化とその周辺」という演題で講演をして頂きました。

講演で初めて知りましたが、1928年に東洋ではじめての総合的な演劇博物館ができた時、最初の展示に選ばれたのが「忠臣蔵」でした。資料的にもいろいろ集まり、ジャンルも幅広く見せられるということで選ばれたそうです。ご縁があったのですね。

児玉先生のお話は、人は如何にして「忠臣蔵」と出会うのか?という話から始まりました。児玉先生の場合は小学生の時に、おばあさまから「のらくろ」の復刻版をもらったことで出会います。それは、のらくろ軍曹が軍旗祭で「忠臣蔵」をやる話。児玉先生は当日いろんな資料を用意して下さいましたが、その内の一つが「のらくろ軍曹 忠臣蔵大芝居の巻」でした。今の若者は「忠臣蔵」を知らない人が多いですが、かつては、子どももよく馴染んだお話だったことがわかります。歴史上の史実をもとに「仮名手本忠臣蔵」という人形浄瑠璃が歌舞伎で上演され、今日に至っています。「史実とフィクションが相互に絡み合ってどっちがどっちかわからなくなっていて、たくさんの逸話が積み重なって史実を覆い隠すぐらいの大きな世界を作っているのが忠臣蔵。フィクションの名称が史実の通称になっている点で、最大のものの一つと言っていいと思う」と先生。

討入があったのが元禄15(1702)年12月14日、それから間もない、元禄16(1703)年1月16日に江戸山村座が「傾城阿佐間曽我」を劇化。曽我兄弟の体を装っていますが、最初の赤穂事件を扱ったものです。巷の人々のこの事件への関心の高さが窺えます。決定版の「仮名手本忠臣蔵」が寛延1(1749)年12月に大坂で初演されるまでも、それ以降もいろんな義士ものが出てきています。映画やテレビドラマも数多くつくられてきましたが、今は「ちゅうしんぐら」と読めない若者も多くなっている時代。児玉先生は「今は瀬戸際、国民的な文化をどのように次世代に繋いでいくのかというところにいる。伝わらないと諦めずに、教えていかなければならない。忠臣蔵の世界をどんなふうにこの先繋いでいくのか、皆さんもお心がけ頂きたい」と、時に漫談風に飽きさせない見事な話術で忠臣蔵の世界をお話しくださいました。

続いてメインの坂本頼光さんの語りと天宮遥さんの生演奏で上演した『忠臣蔵』の「天の巻」45分と休憩を挟んで「地の巻」45分。当日朝に新幹線に乗って京都入りして下さった時点で90分では収まらないというので、開場ギリギリまで編集して、泣く泣く100コマを落として400コマの作品としてご覧いただきました。キネマ画に語りをつけながら自らパワーポイントをクリックして絵を進めるテクニックは流石の神業。難題を引き受けさせられて、へとへとになられたことでしょう。ごめんなさい。でも、見応え、聴きごたえがありました。お客様は皆さん大満足で大きな拍手を送っておられました。

会場には、映画に出演されていた新妻四郎さんのご子息も来て下さって、坂本さんから皆様にご紹介下さり、大きな拍手が送られました。小さい時にお父様を亡くされているので、お父様縁の催しの時にはいつも駆け付けて下さいます。無声映画の残存率はとても低いので、僅かでもお父様の姿が見られれば嬉しいというお気持ちが伝わってきます。芹川少年は、男っぽい新妻さん演じる不破数右衛門正種を幾枚も描いていますが、美しい酒井米子さん演じる苅藻太夫は描いていません。思春期の少年らしい横顔が窺えます。

第3部の佐藤先生と伊藤先生の対談は「こういう風に見たら、芹川さんの絵が面白いかな」という視点で展開していきました。対談で佐藤先生が紹介された大島渚監督の『忍者武芸帳』(白戸三平原作)は1967年に原画だけを映すことで作られた2時間近くの映画で、お客様から教えて貰ってDVDを買って私も事前に観ていました。対象が動かなくても、撮り方、編集によって私たちは没入して楽しむことができます。

映画は止まった絵の連続なので、佐藤先生が示された「運動と静止の往還」になるほどと思いました。芹川さんの大量の映画のシーンを描いた絵が坂本さんの巧みな活弁で動き出し、上掲紙面掲載甥の芹川英治さんの言葉「叔父の絵が動き出して、まさに映画を見ているようだった」という感想を、参加した皆さんも持たれたと思います。

さて、マンガ研究の伊藤先生の最初の言葉が素敵でした。「芹川さんの絵『忠臣蔵』を描いた1926~28年は、実はマンガにとって非常に重要な時だった」です。待ち望んでいた発言なので以下に書き起します。

…………今、我々が読んでいるコマで割ったストーリーマンガの特に1925年が非常に重要な時だった。いろんなスタイルが登場してきて、拮抗したり、滅びていったりしながら、合体、フュージョンしながら、今のマンガの歴史ができている。この頃は本当にいろんなスタイルが登場して、新しいマンガスタイルが登場せんとする、まさにそういう時代である。マンガの表現方法、スタイルが大きく変わっていくうねりみたいなものが、芹川さんの絵は時に混ざり、時に混ざり切らない形で一緒くたになっているのが、ものすごくマンガ史的に面白い」……

佐藤先生から「劇画」って、何ですか?と尋ねられた伊藤先生の答えは、

……マンガ史に於いて「劇画」とは、もともと1950年代末の「貸本マンガ」の世界に於いて、希望的な手塚治虫に象徴される従来の子ども向けストーリーマンガとは異なるマンガ作品を創作するにあたって、大阪出身の辰巳ヨシヒロと彼を中心とする「劇画工房」が標榜した概念。1959年に、「これから手塚と違うマンガを作ります」と書いたハガキを各方面に送った「劇画工房宣言」は喧嘩状のようなものだった。ここで初めて「劇画」の言葉が使われた。

その特徴の一つは「リアリスティックな絵」。辰巳さんは1954年時点では、手塚風のマンガを描いていたが、数年経つとリアリスティックな絵にかわっている。

もう一つの特徴は「コマを割る」こと。これは時間をコントロールする技で、コマ漫画が時間を操ることを意識する。例えば、ピアノを弾いているということを、いろんな角度から描いて、非常に映画的に表現する。手塚漫画だったら1コマで終わるところを、シーンを全部絵にしちゃう感じ。「劇画」とそれまでのマンガの違いで、いろんな角度のカメラワークで非常に映画的。その時間の中に生きているキャラクターの心情に共感しながら、その世界により入っていくある種の発明が「劇画」にはある。

「劇画」の革新性から芹川版「忠臣蔵」を考えると、1925年より少し後の数年間で、2つの在り方が拮抗する。A)「リアルな細密画」←「ペン画」 従来のスタイル▼B) 時間を表現する「コマ」←「コマ漫画」で、芹川版『忠臣蔵』は、この「ペン画的表現」と「コマ漫画」的表現のハイブリッド

A)「リアルな細密画」←「ペン画」について

芹川少年による伊藤彦造の模写(1927年)のひとつは「少年倶楽部」1927(昭和2)年1月号に掲載された挿絵を同年11月1日に16歳で模写したもの。「少年倶楽部」は戦前から「のらくろ」などが載っていて少年雑誌としては最も売れていた。芹川少年は、こうした雑誌を通して伊藤彦造のペン画的なものを血肉にしていた。

漫画家の樺島勝一は、ペン画とコマ漫画の両方を扱える人だった。1926年に樺島は『ペン画の描き方』を出している。この本は3回ぐらい書き直して出版されていて、ペン画のバイブル的な本。そのうちの1944年、光文社から出た『實習指導 ペン画の描き方』には「挿繪も標本圖も亦これを一口で言へば説明圖にほかならないから、物の形を略した所謂こなれた描き方をしてある圖よりは、寫實で密描してあるものの方が多分に役立つ」(25頁)と書いている。

ペン画はその後も引き継がれ、「冒険活劇文庫」(1949年)、後に「少年画報」という雑誌になり、小松崎茂とかがいて、その別冊に芹川さんがやったのと同じ「ペン画活劇映画集」がある。

これは1930年代に街頭紙芝居で「黄金バッド」を描いていた作家の永松健夫の絵。ペン画の伝統は直接マンガには残らないが、一回街頭紙芝居の世界に潜っている。その後電気紙芝居(テレビ)が登場して、紙芝居の仕事がなくなると、水木しげるたちは貸本マンガ家になる。辰巳ヨシヒロたちの元祖になって、もう一度マンガに戻ってくる。そして、手塚治虫と闘うことになる。

B)時間を表現する「コマ」 ←「コマ漫画」 アメリカの子ども向け漫画ウインザー・マッケイらのコミックストリップ「ニモの大冒険」(1905年から連載)の輸入

樺島勝一の代表作「正チャンの冒険」(1923~26年。原作は織田小星)。絵は「挿絵的」≒「絵物語」的で、コマの外のテキストが物語を主導している。吹き出しはあるが、吹き出しだけではまだわかりにくい。今のマンガは、コマの中だけで分かるように描かれている。

それに対して芹川版『忠臣蔵』は、当初こそ「絵物語」的だが、その後のストーリーマンガの主流となる「視聴覚(audiovisual)マンガ」で、テキストがコマの中の声や音を表現し、絵やマンガ的記号と共に物語を動かしている。

さらに芹川版『忠臣蔵』の特徴をあげれば、当初は文字のテキストが1枚あって、次に映画のシーンが描かれていて、非常に無声映画的で、正チャンぽいが、だんだんと物語の中にテキストがあって、そのテキストだけを読むと物語が分かって動き始める。

今読んでいるマンガのような視聴覚マンガになっている。音がビジュアルと合致してコマの中だけで完結している。こういうものが1920年代の頭に成立しているが、それが日本に入って来て、どんどんとこなれてきている時代に、芹川さんはそういうものを読んで血肉にしつつ、表現していった。刻々と毎日描いている中で日によって表現が変わっていく状況、過渡期にあった作品ではないか。

アマチュアだから一つにできないというところもあるけれど、混ざったままタイムカプセルのように残ったのが芹川版『忠臣蔵』。この資料はマンガ史的に貴重で面白い。海外のマンガは専門的なトレーニングを受けてというのだが、日本の場合は誰かの模写をしているうちに読者だったのが、マンガ家になっていたというのがあり、作者と読者があいまいだということも体現している。弟子入りして絵を学ぶ文化が欧州にはあるが、北斎マンガをみて真似をしている江戸の市民がたくさんあった。マンガを自分で描くことについて作品に終わらせず、アニメートしている。真似して作家になっていくのは当たり前。今でもそう。今でも続いている。それが世界に広がっている。100年前からそんなことをやっていたという証拠の現物があることが凄い‼…………

催しの最後に、2022年最初の共催イベントで紹介した“満洲”からたった一人で帰国した黒田雅夫さんが引揚げ体験を描いた話が2023年夏に絵本になり、2023年のイベントで紹介した戦後マレーで抑留経験をした野田明さんのスケッチ画と現地で手作りした文集『噴焔』が2024年10月京都大学の山本博之准教授によって本になったことを紹介し、「二度あることは三度ある」と芹川文彰さんのキネマ画『忠臣蔵』も本にして欲しいと伊藤先生にお願いをしました。記事にもありますように伊藤先生は「芹川版忠臣蔵という資料に関しては、少なくともマンガ研究的には、きわめて重要なものであることは間違いありません」と仰り、「 次のマンガ学会大会に参加できそうであれば、この資料を紹介する発表ができないかな、と思っています。 復刻版も作りたいですね。相談してみます」とメールでも書いて下さいました。大いに期待しています‼

個人的には、熊本大学に国際マンガ学教育研究センターができた今、芹川版『忠臣蔵』を坂本頼光さんの活弁で凱旋口演してみては如何かと思います。地元で関心が広がれば良いなぁと願っています。

長々当日の振り返りをお読みいただき有難うございました。

 

 

 

 

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