おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.02.02column

訃報、木村重信先生

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私自身は木村重信先生にお会いしたことがありませんが、新聞の訃報を読んでとても寂しく思っています。

連れ合いが今日あるのは、遡れば木村先生に至ります。連れ合いが京都市立芸術大学の学生だった頃は1970年安保の前夜で、学生運動が活発でした。木村先生から後年聞いた話によれば、「『学生の要求にも耳を傾けよう』と教授会で提案した」のだそうです。研究ゼミの募集がなされました。太秦の撮影所近くで育った連れ合いは、子どもの頃から映画の撮影風景を見ていたこともあり、映画はとても身近に感じていました。「京都は日本のハリウッドと呼ばれているのに、映画の講座や学科がないのはおかしい。ゼミを作ってほしい」と早速声をあげ、企画案を提出しました。学内で唯一人だったそうです。

その企画書が受け入れられ、開講への道筋を開いてくださいました。当時、木村先生が映画関係者で唯一ご存知だったのが、シナリオ作家の依田義賢先生でした。直接、木村先生が依田先生に招聘のお願いに行かれたそうです。そして、依田先生が講師として大学に招かれました。毎週木曜日の授業のあと、宮川町や先斗町へ、「おたか」「きぬ芳」「照代」「天久」など映画人のたまり場に連れて行ってもらい、京都の映画界のことや溝口健二監督のこと、シナリオについてマンツーマンの映画教室が繰り広げられるという、通常あり得ない幸運な機会に恵まれました。

1971年、大阪芸術大学に映像計画学科が創設されることになり、依田先生が初代学科長に就任。翌年の卒業とともに、連れ合いも引っ張ってもらってカリキュラムなどのアイデアを一緒に練りました。カメラマンの宮川一夫先生や森田富士郎先生も、大学で教鞭をとられることになりました。そうしたことが土台となって、今日日本の映画界で活躍する人材を数多く輩出している大阪芸術大学映像学科に繋がります。5歳で父親が病死した連れ合いにとって、依田先生は恩師というだけでなく、父親のような存在でもあり、私たちの仲人も務めてくださいました。

「日本の無声映画が残っていない」という危機感を初めて覚えたのも、京都府内から見つかった依田先生の唯一残る無声映画『僕らの弟』の発見から。続いて傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』の復元を手掛けたことで、「貴重な無声映画を発掘して、修復し、次世代に残す」使命感にも似た活動が始まりました。

木村先生との出会いがなければ、依田先生とも出会えなかったのかもしれません。そうしたら今の活動もしていなかったかも…。そう考えると人と人との出会いの妙を感じずにはいられません。

木村重信先生、どうぞ天国で安らかにお眠りください。ありがとうございました。

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