おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.01.06column

初代桂小春團治さんとNHK朝ドラ「わろてんか」

賀正A

随分昔のことになりますが、「隼人」と呼ばれた人々の任務の一つだった「吠声(はいせい)」について調べていたことがあり、犬に関するあらゆるものに関心を持っていた時期がありました。この年賀状もその頃に買ったもののひとつ。今年は戌年なので、思い出して使いましたが、初代小春團治さん(1904年10月20日~1974年8月15日)について、詳しく知っていたわけではありません。差出してしまった後に、ふと「どのような人だったのだろう?」と気になって調べてみました。

昭和甲戌年は、昭和9(1934)年のこと。昭和8年3月に国際連盟脱退、同9年3月に「満州国」帝政が実施されています。この年賀状はそのような社会情勢下で書かれたものでした。

DSC03634 (2)大阪市西区九条に生まれた小春團治さんは子役の色物として活躍していましたが、大正10(1921)年に落語家の父と共に初代桂春團治門下に入り、父は團丸を、自身は小春團治を名乗り、この頃から吉本興業に所属します。翌年から正式に春團治さんの内弟子に。新作落語に力を注ぎ『爆弾三勇士』『国勢調査』等を発表し、芝居話と新作落語の二刀流で人気を集めました。なお、NHK朝ドラ「わろてんか」に登場する破天荒で当時絶大な人気を誇った月の井団吾(浪岡一喜さん演技)のモデルが桂春團治さんです。

DSC03661昭和5(1930)年5月21日の出番表に春團治さんの名前は勿論、小春團治さんのお名前も載っています。ここに掲載した写真は全て、12月20日吉本興業の本拠地「なんばグランド花月」(大阪市中央区)内覧会に招待されたときに撮影したものです。

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「横山エンタツ・花菱アチャコ」のコンビから「漫才」の文字が使われるようになったそうです。「南地花月」(今の「なんばグランド花月」の前身)で漫才をする二人の写真が載っています。

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昭和8(1933)年の写真。何月のことかはわかりませんが、この中に小春團治さんもいるのでしょうか。下の方が欠けていますが、白いエプロン姿で慰問袋に詰める吉本せいさんの姿が写っています。

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慰問袋には、こうした漫才の台本も入れられました。「国策漫才」の文字もあり、戦争の激化に伴って、漫才の内容も戦意高揚を目的にしたものに代わっていったことがうかがえます。「万才」「まんざい」「漫才」の3種類の文字が見られます。

吉本興業が落語から漫才にシフトしたことへの反発から、小春團治さんは昭和8年10月に吉本興業を退社し、直ぐに仲間と「桃源座」を結成し、ここに掲げた年賀状を書いた昭和9年1~4月に中国、東海などを巡業しています。年賀状に口をギュッと結んだ「日本一の桃太郎!」を描いているのは、関西興行界を支配する吉本興業に対し、「今に見ていろ!」的な決意の表れだったのかもしれません。しかし、ほどなく「桃源座」は解散。大阪での活動が困難になった小春團治さんは、大阪を離れます。この年10月に春團治師匠が病死し、周囲から名跡襲名を勧められましたが、吉本興業から反対されただけでなく、「小春團治の名前を返せ」とまで言われ、師匠の葬儀にも参列が許されなかったそうです。「春團治」の名跡は、吉本せいさんに可愛がられた初代桂福團治さんが継ぎました。

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毎朝、NHKの朝ドラ「わろてんか」を見るのが日課になっていますが、吉本せいさんは葵わかなさんのような可愛らしい面も確かにあったのでしょうが、女興行師として男性さながら、女丈夫で厳しい面もあったのだと 思います。お笑い界を席巻し破竹の勢いがある現在の吉本興業の礎を築いた吉本せいさんの銅像と一緒に記念撮影。

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リニューアルされた「なんばグランド花月」。大きくて立派なホールですね。こんなに多くの座席がお客様で満たされるなんて、普段集客で苦労している身からすればクラクラしてしまいます。

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これが「なんばグランド花月」の最初の姿、大正4(1915)年の「南地花月」。朝ドラ「わろてんか」の風鳥亭ですね。

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どんどん寄席小屋を増やしていった吉本興業創業期ゆかりの地マップ。

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その資料の右下に京都にあった吉本興業寄席小屋の名称一覧もありました。具体的にどこにあったのか、ミュージアムからそう遠くない場所にあったようにも思われ、また調べてみたいです。

「せっかく難波まで来たのだから」と、エッセイストの武部好伸さんが著書『大阪「映画」事始め』(彩流社)で「大阪は映画興行の発祥地のみならず、映画上映の発祥地である」と熱く語っておられる場所を訪ねてみました。DSC03681

明治30(1897)年2月15~22日、大阪・難波の南地演舞場で、フランスのリュミエール商会のシネマトグラフによる映像が有料で一般公開されました。その南地演舞場があった場所が、写真に見えている「TOHOシネマズなんば」が入る東宝南街ビルが建っているところです。

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その1階エレベーター乗り場の壁に掲げてある関西経済界の巨人、小林一三翁の「映画興行発祥地」の碑文が刻まれた銅板プレートです。やはりNHK朝ドラ「わろてんか」に登場し、主人公てんと夫の藤吉の友人、伊能栞(高橋一生さん演技)のモデルです。

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 難波中。なんばCITYとなんばパークスの間にある地下の通風孔のある辺りに、福岡鉄工所がありました。大阪の輸入商、荒木和一さんがアメリカのエジソンと直談判して持ち帰った映写機「ヴァイタスコープ」の試写を明治29(1896)年12月にこの福岡鉄工所で実施しました。これまでの定説では、日本最初の試写は1897年1~2月に、京都の実業家、稲畑勝太郎がフランスから輸入したシネマトグラフを用いて京都で行ったのが最初とされていたので、定説を覆す発見だと話題を集めました。「日本初の映画上映地は難波だった」という彼の論考は、公的な刊行物である大阪市史編纂所の紀要『大阪の歴史』86号にも掲載されました。武部さんは「荒木和一さんの念願だったという『日本初の映画上映の地』の碑を代わりに立てたい。映画のふるさとは難波だと、みんなが認知するまで頑張らないと」と話しておられます。

たまたま手元にあった小春團治さんが84年前に書かれた年賀状から、12月20日に訪問したばかりの「なんばグランド花月」とのゆかりがわかり、さらに現在放送中のNHK朝ドラ「わろてんか」に登場するモデルたちとのこともわかり、面白く思っています。もうすぐ、今朝の「わろてんか」が始まります。これを見てから、新年最初の仕事に行ってきます。

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