おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.04.02column

祝!映画キャメラマン宮川一夫先生生誕110年

DSC04639 (2) - コピー昨日の宮川一夫生誕110年記念『映画の天使』上映には、遠路、東京や大分からも駆けつけてくださいました。

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ニューヨークの近代美術館やジャパンソサエティなどで、宮川先生生誕110年を記念して特集上映されるのを祝して開催しました。米国での華々しさに比べ、手ごたえがあまり感じられないままに日を数えたので内心、どれだけの人が来てくださるか心配しました。でも、杞憂でした。ご覧のように宮川先生やその作品を慕う人で小さなホールは埋まりました。ご多忙の中お集まりいただいた皆さまに心から御礼を申し上げます。

2枚目掲載写真の一番後ろのお二人は、この日上映した『映画の天使』の監督高岡茂さん(右)と、後に映画の内容を㈱パンドラが同題で出版した折り、「溝口組の仕事」について高岡さんと一緒に宮川先生にインタビューしたジャン・ポール・ル・パップさん(左)。

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『映画の天使』監督の高岡さん。助監督時代に日本映画撮影監督協会の広内捷彦さんから「宮川先生が生きておられるうちに撮ろう」といわれ、大阪の富田林の旧家で『舞姫』撮影現場を撮影させてもらったのが最初だそうです。当時河原町にあった朝日シネマの神谷さんに相談し、1989年7月14日『近松物語』上映後に淀川長治さんとの対談があった時に、フィルムに収めたのが本作。宮川先生はその後病に倒れられて、1999年8月7日に旅立たれました。『映画の天使』は翌年完成しました。

DSC04634 (2) - コピー『映画の天使』上映後のトークタイム。宮川先生について問われて、「映画に対する熱い思いがビンビン来るのが第一印象です」と高岡さん。連れ合いは1973年に宮川先生が大阪芸大へ行かれて間もないころの授業風景が忘れられないと紹介。約60人ほどの学生さんを前に「伊丹万作を知っている者は?」との問いかけに、手をあげたのが1~2人のみ。それを見た途端に先生は「映画を作ろうと志す者が、伊丹万作を知らないということを恥と思いなさい」と激怒して教室を後にされたそうです。テキストのない時代に、宮川先生は伊丹監督が書かれたものを読んで勉強されました。そんな熱い先生でしたが、大阪芸大でキチンと宮川先生の授業を受けられたのは1980年代半ば位まで。『影武者』の時に目を悪くされ、そのあと病に倒れられたからです。

この日の参加者は先生の授業を受けた人が何人も駆けつけてくださいました。そのうちの一人V8の今は映画評論家として活躍されている春岡勇二さんは、京都の先生のご自宅や鴨川でも授業を受けた思い出があるそうです。そして、「当時60歳をゆうに超えておられたが、『カメラマンは体力が必要だ』と教室の前で腕立て伏せをしていた」というおもしろい証言も。当時学生さんたちは「宮川先生」「依田のおっちゃん(脚本家の依田義賢先生)」「滝沢さん」とレジェンドたちの授業を受けて毎日夢のようだった思い出も語ってくださいました。春岡さんは、朝日シネマの対談の時客席におられたそうで、淀川長治さんのことを「人間映写機だった。映画を見る達人もいる」と表現されたのが印象に残りました。既に無くなっている無声映画も淀川さんの頭にはすっかり在り、それを映写するように話されたのに感心されたようです。

対談で、宮川先生も淀川さんに「当時のサイレント映画をあそこまで覚えておられて、とにかくセリフでの表現ということでなく、映像での表現。サイレント時代には、言葉もない、色もないのに、画でどうして訴えるかという技術に、ものすごく監督もキャメラマンも研究し夢中だったということなんです。それで僕は今、サイレント映画を見て欲しいと、しょっちゅう言ってるんです。淀川さんの話を聞いていて、現場の人にもっと聞いてもらいたかったなと思うんです」と語っておられます。個人的には、『映画の天使』を見たことで、この先生の言葉に出会えて良かったと思います。

3人のレジェンドたちの名前が出たので、連れ合いは「映画評論家の滝沢一先生は『良い映画を見るべきだ』と授業の中や試写会で良い映画を見る機会を作ってくださった。一方の宮川先生は『悪い映画か良い映画かは見なければわからない。なぜ良いのか、なぜ悪いのか、映画は多く見なければならない。しかし、映画の現場の者が映画を見ていない』と話されていた」と紹介。映画の現場の人が、もっと映画を見て、聞いて、学んでほしいと歯がゆく思っておられたのでしょう。

以前テレシネ作業中に見つけた1974年に連れ合いが撮影した映像も上映しました。宮川先生が大阪芸大に来られて間もないころで、V2の学生さんたちに指導されている様子を16㎜カメラのテストを兼ねて撮影したものです。

 

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スモークの効果的な焚き方を、全身を使って指導されている様子。

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音声はありませんが、いつも傍にいた連れ合いは「パンニングする場合も、最後にどこで止めるか、姿勢を定めて撮影しなさい。インとアウトが凄く大事だ。映画はつながりが大事だ」ということを話しておられるのだろうと説明しました。キャメラマンの渡辺貢先生など懐かしいお顔も写っていました。

この日は、ご遺族・ご親戚の方もお運びくださいました。お孫さんの宮川一平さんは「映画人の宮川一夫を知らず、家にいるおじいちゃんしか知らないので、映画で熱くしゃべっているのを見て感動した」と感想を述べられました。「おじいちゃんのことを何も知らないから」と曾孫の女の子も来てくれました。戦場でもある仕事場に家族が来ることも、家で仕事の話をされることもなかったようです。

助手として一緒に仕事をした経験があるキャメラマンの福田修さんも参加いただきました。福田さんは1981年カンヌ国際広告映画祭金賞受賞したサントリートリスのCM『雨と子犬』で、2カメを担当し、子犬が自転車のタイヤにぶつかりそうになる場面で、「きっちりここで止まれ」と指示された場所で自転車を止める役もこなされたとか。何度見ても良いCMです。その福田さんは、宮川先生のことを「神様のように思っていた。撮影部は一言一句聞き漏らさないよう、緊張していた。聞き直すことはできなかった」と。宮川先生が『悪霊島』の撮影が伸びて、次作である『曾根崎心中』では先行して撮影に入りましたと思い出をお話くださいました。

連れ合いが見た『近松物語』台本の最後に宮川先生によるOKカットとNGカットの尺数のメモ書きがあり、俳優によるものは別として、撮影部はほとんどNGがなかったことがそのメモ書きからわかると話しました。撮影部はNGを出せないのが前提だったことから、当然現場で厳しかったのでしょう。その一方で、「映画の現像からスタートし、長い撮影助手を務めた経験が名キャメラマン宮川一夫の基礎を作り、製作現場の人はスタッフと同じという考え方をずっとされていた」とも話しました。

『山椒大夫』で安寿が入水する場面は、手前の竹に墨を塗って湖面の白さを余計際立たせ、安寿の心の様子を表し、『羅生門』では、撮影所衣裳部にあった鏡2枚を借りてきて太陽を表し、本物の雨に見えるよう墨汁を入れて降らす、『無法松の一生』ではオーバーラップの表現をして、と数限りない逸話がありますが、そうして回したフィルムは35万フィートにもなるそうです。参加者の方から「今回の宮川一夫特集とても良かったのと、再度観たいので毎年恒例にしていただけたら嬉しいです」とメールが届き大変嬉しく思っています。期待に沿えるよう、そして、偉大なキャメラマン宮川一夫先生の功績をこれからの人にも知ってもらえるよう、機会あるごとに語り継いでいかねばならないと改めて思っています。

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上映後の懇親会。縁の人が集まって、宮川先生の思い出話をあれこれと咲かして、110回目の誕生日を祝いました。

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館内では、宮川先生のスチール写真、ポスター、シナリオなどの資料のほか、岐阜県瑞浪市の元映画看板師・高木紀彦さんが描かれた宮川先生が撮影された作品の絵画17作品も展示しています。50点ほどある中から、ニューヨークで上映される作品を中心に選び、お借りしました。4月29日迄ですので、是非間近でご覧ください。

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