おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.06.23column

トランペットの音色で鑑賞「沖縄の8ミリ映画ー市民が映した沖縄の戦後史」デジタル上映会

おもちゃ映画チラシ表 - コピー

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5月26日に沖縄の映像作家で、沖縄に残る映像資料を発掘して、デジタル保存するだけでなく、その活用を広く進めておられる真喜屋力さんと奥様のしほさんにお越しいただき、上映会をしました。

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今まで無声映画の伴奏は主に電子ピアノの音色で、風変わりなところでは尺八もありましたが、トランペットの演奏は初めてなので、どのように響くかワクワクしました。

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写真は、真喜屋さんたちのところに届いた多くの8ミリ映像のタイトル。沖縄の地域研究をされていた方が長年の取材先で撮影した貴重な記録映像。手書きのラベルを見ているだけで、民俗調査が好きな私は見入ってしまいます。昔、民俗学者の谷川健一先生と一緒にフィールドワークをした時、「葬儀の様子を見て歩きたい」と言ってびっくりさせたことがありましたが、そうした映像も含まれていて、「見たい!」と気持ちははやります。でもその数90本。フィルムは既に固まっていて、専門業者によれば1本30万円、合計2700万円‼ なかなか簡単にGOサインが出せる金額ではないですね。しかもきれいに剥がせるかわからないそうです。カラーフィルムなのですが、色がどれくらい残っているかもわかりません。「今後リスト化して、スポンサー、研究者などにも呼びかけて保存できるように取り組みたい」と真喜屋さん。クラウドファンディングの動きがあれば、微力でも参加したいです。

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前回2017年9月8日に開催した「市民が写した沖縄戦後史」の時に、真喜屋さんたちが復元した『沖縄縣の名所古跡の實況』を見せて貰いました。昨年12月8日大阪大学であった日本映画学会でも、沖縄の映画史研究家・世良利和さんらによって上映され、その時ご挨拶した縁もあって、世良さんも遠くから駆けつけてくださいました。

スクリーンに写っているのは『沖縄縣の名所古跡の實況』を製作だけでなく出演もしていた渡口政善さん。沖縄からハワイに移住し、彼地で成功した後、1932(昭和7)年に自分の故郷を撮影して、翌年ハワイのホノルルで同郷の人々に公開されました。監督の吉野二郎はマキノ省三のところで仕事をしていたこともあり、年代的に「パブリックドメイン」となっている可能性が高いのですが、今後の保存・活用を進めて行くためにも何らかの情報が得られないかと、当館で上映していただきました。その時の様子はこちらで書いています。

この日は、前回上映時の参加者が少なかったので、再度『沖縄縣の名所古跡の實況』を最初に上映し、その後わかったことも含めてをお話をしていただきました。ハワイで上映され、好評を博したこの作品が沖縄県内で上映された記録は1962年のみ。1998年にフィルムが見つかり試写されましたが、詳細がわからないまま再び所在不明に。2016年真喜屋さんが8ミリ収集の過程でこのフィルムの存在を知り、那覇市にある映画館の倉庫で発見!相当劣化が進んでいて復元は断念せざるを得ませんでしたが、1998年の試写の時に琉球朝日放送と沖縄テレビが番組用に撮影したビデオテープがあることがわかり、それを1本にしてデジタル化されました。戦争で燃える前の那覇の風景が記録された貴重な映像です。

昨年ハワイの沖縄ハワイ協会に製作者について問い合わせて探して貰ったところ、その次の日に「見つかりました」と連絡があったそうです。その人は何と、問い合わせた人の隣人でした。「博物館がデジタル化しているのに、なぜ誰も探さなかったんだと思いましたが、だからこそ僕らができたということもありますが」と笑いながら前回発表以降のことをお話くださいました。

真喜屋さんは「アーカイブ的なこと以上に、見せたいという思いが強いので、それが色々功を奏して見せる方向にどんどん動いている。8ミリをいろんな形で見て『懐かしいね』で終わるのではなく、アレンジも加えて公開していくことで、未来を引き出していく力になったら良いな」と作り手からの8ミリに対する視点で取り組んでおられます。

ご遺族の方は「沖縄のためになるのなら、父も喜ぶと思うので」と映像公開に賛同されました。真喜屋さんと世良さんは、今後沖縄県の助成金を申請して、ハワイに映像を届けに行き、関連資料を探すと同時に、渡口政善さんのように、ハワイに渡った沖縄の人が沖縄の記録映像を撮ってハワイで上映報告したケースがないかを探したいと思っておられます。ハワイに移住した人々の日常を撮ったものがあるでしょうし、ハワイで公開された古い映画がそのまま残っているかもしれないので、それらも探したいと仰っていました。

続いて、新発見の沖縄の映像と沖縄の人が観光で訪れた折りに撮影した京都の映像を真喜屋さんの解説付きで見せて貰いました。これまで集めた映像は約120時間分もあり、その中から選ばれたものです。真喜屋さんたちが気付かずにいた情報を得ることにもなると、私語大歓迎というスタイルで上映開始。

☆ホームムービーの王道、家族の映像から、

1955年、赤ちゃんが生まれて数日後、助産婦さんが若いお母さんに沐浴の仕方を教えている映像とその男の子が成長する過程を1本に纏めたもの。1951年に電気技師として沖縄の宜野湾市に移り住んだ遠藤さん(現在95歳)が60年前のフィルムを大切に保存されていたうちの1本です。宜野湾市の住宅街が記録されています。

☆時代のトピックから、

1972年5月15日、土砂降りの雨。沖縄復帰記念の式典を近所の人がたまたま撮りに行ったもの。式典終了後、招待客が次々出て来て雨宿りしながら、迎えの車を待っています。当時の政治家など要人が映っています。撮影者は8ミリ同好会に入っていたので、機動隊やデモ隊などもきちんと撮っている珍しい映像。「こういう映像を、前回お越しいただいた野中広務さんに観て貰いたかった」と真喜屋さん。最後は赤ちゃんのおもちゃになったドル紙幣も撮っていて、オチがあります。他にも、沖縄返還1か月前、那覇空港でパスポートを使う最後のチャンスということで、団体旅行用にパスポート申請する様子を撮影したものも。当時は日本側とアメリカ側と両方が発行していました。

1960年、アイゼンハワーアメリカ大統領が沖縄訪問の映像。国道58号線が走る街中をオープンカーに乗っていく様子が記録されています。警備員が3mおきに配置されていますが、今より警備は緩やかです。街中に高圧線がまだ残り、大きなビルが一つもない時代です。

1963年11月17日、アマチュアカメラマン屋冨祖正弘さんが撮影した名護町商工会の運動会。子どもが多い時代の賑やかな風景で珍しい種目がたくさん。

☆復興と沖縄の世、

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1957年、那覇市内の足場が悪いところに高圧送電線鉄塔を組み立てている時の映像で、前述の遠藤さんが自分の仕事をプライベートカメラで撮影されたもの。遠藤さんのような専門のとび職は日本中を仕事して回っていて、1日1本は建てたそうです。アマチュアがヘリから撮った那覇の街の様子からは、アメリカの住宅と沖縄の人の住宅の庭の広さが対照的。真喜屋さんが小学生の頃は断水でも基地の中で洗車をしていて、それくらい違っていたそうです。軍隊と一緒に移動しながら電気を送る米軍の発電船も映っています。北谷町にあった陸軍病院(後に海軍病院に)は今でもモダン建築で、保存しようという動きが出ているそうです。その陸軍病院が最初に公開されたとき、遠藤さん夫妻も見学し、記録映像に残しておられます。

20時間くらいある遠藤さんの映像の中からもう一つ。復帰後の1974(昭和49)年10月25日の映像。山と山の間に電線を張る時や沼や池など足場が悪い場合は、専門家が操縦するラジコンで、最初に軽くて細い紐を通します。ラジコンが戻ってくると、だんだん紐を太くして本線にして、鉄塔と鉄塔を繋ぎました。当時の作業風景がわかる映像です。

前回もご覧いただいた「ジュリ馬」の変遷も。遊女たちの顔見世興行的な祭りで、旧暦1月20日沖縄中でやっていたうちの辻での様子を記録したもの。「ジュリ馬」は戦後復活しましたが、一時中断を経て、2000年から踊りだけが再度復活しました。1970年の映像には、街全体がステージのように賑やかで、中心にあった料亭「松の下」が映っています。新たな資料として、RBC琉球放送で放送された「旧二十日まつり」(16㎜)の様子も。放送後廃棄になったニュースフィルムが関係者の家庭にプレゼントされたもので、映像は辻の街の記録でもあります。今年クラウドファンディングで前編(8分)をデジタル化されましたが、その内の1分を見せていただきました。「アーカイブは利活用・公開していくことで機能していくことが大切だ」と真喜屋さんは話します。

同じく最近入手された「ゴザ祭」の映像は、米琉親善の祭りが何回か開かれた折りの映像を編集したもの。仮装行列には、沖縄のサブカルを語る上で最重要人物照屋林助さんの姿も映っています。三線職人でもあり、沖縄の芸人の中でも神格化された人で、ご子息はりんけんバンドの照屋林賢さん。手に「迷子 唐やマーガ 大和マーガ」を書いた札をもって行列しておられます。「中国はどこだ、日本はどこだ。日本は、そして沖縄はこれからどうなるか」と風刺を込めています。「今まで写真があったが、動く姿はこれが初めて」なんだそうです。

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休憩を挟んで、まきやしほさんが作画されたものをご主人の力さんがアニメ―ションにされた『Little Girl with Kettle』を上映。5月31日迄しほさんの作品展がご実家のある綾部市の「つむぎ」で開催されていました。

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続いて、しほさんのトランペット演奏付きで8ミリ映像を鑑賞。こうした機会は2回目なのだそうです。初めてトランペットの音色が館内に響きましたが、無声映画に良く合うと思いました。他にもフルートとか、アコーディオンなどもきっと合うと思います。いつかそうした楽器ともコラボ上映ができたら良いなぁと思いながら耳を傾けました。

ご覧いただいたのは遠藤さんが子どもの成長を撮った前掲映像ですが、断片を紹介するのが難しい場合、編集してご覧いただく事例として、パフォーマンスしていただきました。「いろんな形の表現方法があると思うので、これからもチャレンジしていきたい」とご夫妻。沖縄ではジャズバンドで上映することがあるそうですが、そのメンバーの一人が、5月ドイツのフランクフルトで開催のニッポンコネクションに呼ばれた折り、真喜屋さんたちの映像を背景に使用されたそうです。「捨てられたかもしれない映像が、こういう風にして広がっていく」のですから、改めて「フィルムを捨てないで!」と訴えたいです。

☆お祝いの映像から、

・満1歳のお祝いの儀式「タンカーユーエー」から。テーブルの上に、ごはん、お箸、お金、筆、本、ノートなどを置いて、その子が何を取るかで、人生を占うもの。

・お正月の映像は、1950年代の沖縄の住宅街での晴れ着、1960年代の普天間神宮での晴れ着を撮ったもの。

・那覇市内の成人式、写真館で撮った映像には、電柱に中核派のビラが貼られていました。

・結婚式の映像には、男性しか入れない「一番座」、女性しか入れない「二番座」が映り込んでいて、沖縄の風習がわかります。

・風車祭(カジマヤーユーエー)の映像。おばあさんたちが数え年97歳になると風車を飾って、人生が一周した長寿を祝う伝統行事で、旧暦9月7日か9日に催されます。映像では、大城カメさんがオープンカーに乗って村をパレードし、村をあげて祝福されています。手の甲にハジチと言われる刺青があり、明治時代までの女性がしていたお守りです。

☆他に最近見つかった映像の中から、1974~75年に撮影された「古宇利島のウンジャミ(海神)」、

1970年代中頃の古い形のお祭りの様子。前回は有名な塩屋での映像でしたが、もっと小さい島である古宇利島での記録映像で、撮影者は中山良彦さん。今日6月23日は「沖縄慰霊の日」ですが、この日開館30年を迎えた「ひめゆり平和記念資料館」が1989年に開館した時のプロデューサーをされるなど沖縄の文化人として有名な方です。ノロ(神女)が大勢映っています。若い頃の高良倉吉さん(元沖縄県副知事・沖縄の歴史学者)も映っています。一日かかる儀式を10分位に纏めてありましたが、時間の関係でそれを5分に縮めたものを見せて貰いました。「船漕ぎの儀式」は足元に四角い線を引いて船をイメージしています。地域によってはイノシシをイメージするところもあるそうですが、いずれにしても豊漁(猟)を願う祭りです。一人ずつ中央に進み出て、小旗が付いた棒(鉾?)を天に向かって3回突き上げる真似をします。それから何かをノロに配っています。「映像はできるだけ現地の人に見て貰って、伝統保存に利用して貰えるようにしたい」と真喜屋さん。それから海に向かって棒(鉾?)を海に向かって輪を描くようにしてから、ハーリー船で神様を海の向こうに送っていきます。最後にハーリー船3隻によるレースをして「ウンジャミ」は終わります。「こうした映像は、博物館に収蔵されて、広く見られるようになると良い」という真喜屋さんのお考えに同感です。

☆変わりダネの上映も、

1970年代、8ミリが広がった文化があり、8ミリを撮った人が自分のフィルムの頭に付けるタイトル集が売られていました。「ある休日」「わが家の記録」「新婚旅行」などで、小型映画、8ミリ映画文化があったことの資料になります。カタログでもあれば面白いのですが、たまたまカットされていないものがあったので紹介していただきました。小型映画の愛好会が日本各地にあり、沖縄支部もありました。ということで「小型映画友の会全国大会沖縄大撮影会」の時の映像を見せて貰いました。生演奏に合わせて琉舞を踊る4人のモデルと仲井眞元楷さん(元沖縄県知事・仲井眞弘多さんの父)の解説が付く撮影会です。もう一か所、同じメンバーで場所を中城城跡にかえて行っています。このイベント参加者が撮った映像がどこかで眠っている可能性があります。仲井眞元楷さんは芸能関係に詳しく、戦後の早い時期に沖縄に映画館を作った人だそうです。

☆沖縄の人が京都旅行で撮った祇園祭の映像も、

1965年京都観光の映像は、市電、上七軒、下鴨神社、龍安寺石庭、御所、出町柳、岡崎の平安神宮などを巡った旅の記録と中山良彦さんが撮影した祇園祭山鉾巡行の映像。この祇園祭の映像には㈱吉忠さんが御池通りに面して新社屋建築中の様子が映り込んでいましたので、後で吉忠さんに社屋竣工年月日を尋ねてみました。1971年春ということでしたので、1970年7月の祇園祭を記録されたものだと特定できました。京都の映像をご覧になっている時ばかりは、「あっ、龍安寺や」などと参加者から賑やかな私語が飛び交いました。

 ☆ハワイに移住して成功した人が沖縄に帰省し、懐かしい那覇市内外れにある実家周辺を撮ってハワイで披露後、VHSにして親戚に配った1950年代の映像も。茅葺の家がそのまま残る戦後5年目の沖縄が映っています。ハワイから文房具を持って帰って来たそうです。那覇の中心街、当時の闇市の様子も映り、活気に溢れています。「沖縄の人にとって市場は身近過ぎて撮りません。昔の市場の様子は、沖縄に来た観光客の映像から探すのがいい」という真喜屋さんの言葉に納得です。

以上たくさんの映像を見せて頂きました。最後に「沖縄アーカイブ研究所というスタジオを作って活動を進めていて、現在130本くらい収集しました。できるだけアップしていきます。これからも面白いものがあれば公開して行きますし、またおもちゃ映画ミュージアムでも公開できるようになれば良いと思っています」と結んで、第2回目「沖縄の8ミリ映画―市民が映した沖縄の戦後史」を終えました。

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お決まりの集合写真。前回が満員だったこともあり、たくさんの方に沖縄の地域映像をご覧いただけるものと思っていましたが、あとの交流会で参加者から「今日は、檀王法林寺で第12回沖縄フェスタ・ イン・京都があった」と教えて貰って、日程が重なっていたことを漸く知りました。大変充実した内容だっただけに、残念‼ 次回はこの経験を活かします! 前列左端の女性は、新聞の催し案内をご覧になって「何があっても、これを優先して見に行こう」と初めてのご来館でした。励みになる嬉しい言葉でした。

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和やかな交流会。真喜屋さんご夫妻、それから、幾多の催しの中からこのイベントを選んでお越し下さった皆様、本当にありがとうございました。

たまたま目にした某氏のツイッターに「沖縄慰霊の日。当時米軍をして『ありったけの地獄を一ヶ所に集めた』と言わしめた沖縄戦。本土決戦に備えた時間稼ぎとしての勝ち目のない戦いのために20万人が犠牲になった。若者や子どもたちまで戦争に駆り出された。そして今なお沖縄は苦しんでいる。政治には口だけでない『反省』が求められている。」と書いてあり、思わず頷いてしまいました。そして真喜屋さんは「慰霊の日は沖縄戦が終わった日ではなくて、本土決戦を遅らせるために正式な命令として沖縄が捨てられた日。そのことは語られつづけるべきだなと思う」とFacebookで書いておられます。

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昨日は立命館大学国際平和ミュージアムへ行って、春季特別展「よみがえる沖縄1935」を見て来ました。この特別展については、以前新着情報のコーナーで紹介しました。会場出口近くに大きくパネル展示されていた元沖縄国際大学教授の吉浜忍さんの「日常の陰に戦前の『匂い』」と題した文章を読まずに、平面的に見るだけなら、漁業やサトウキビ栽培をやり、自然と共に健気に明るく生きている人々という印象を持つかもしれません。写真撮影できなかったので、吉浜さんの文章を一部書き写したメモから、

「知らない内に沖縄の日常はプロパガンダに転用されたのだ。写す側と写される側とその間には、時代認識のズレを認めることができる。写真が、平穏な日常が戦争に向かう体制に組み込まれていくプロセスを感じ取ってほしいと訴えているように思えてならない。サトウキビ畑で青年たちが集団で夜間作業する姿は、青年団が国家のため生産性向上に努力していることを強調している。尋常小学校で『世界に拡がる糸満人分布』地図を前に子供たちが並ぶ様子は、糸満の漁師たちが海外で活躍している様子を通して、日本が南洋諸島へ植民地を広げていく南進政策を宣伝している。」

1931年9月、日本は中国の東北部で侵略戦争をおこし、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに中国との全面的な戦争を始めます。1938年人的物的資源を戦争に動員するために国家総動員法が公布されました。大阪朝日新聞が1935年7月13日~22日に連載した「海洋ニッポン」は、国策宣伝の要素も含んでいたのです。1935年は日露戦争から30年目の節目でした。写真説明によると、バルチック艦隊を発見した山原船の船頭とサバニで急報を伝えた5人の計6人を旧海軍が「沖縄六勇士」(大阪朝日新聞1935年2月25日付け)として表彰し、軍の宣伝に使いました。サバニに乗った漁師は沖縄戦でも切り込み隊や伝令にされたということです。連載第1回目は、サメ獲り名人で、たくましい体つきから「仁王」のあだ名がついた上原亀さんでした。連載の意図をここからも感じられるのではないでしょうか。

真喜屋さんご夫妻が沖縄の地域映像を見せて下さってから、1か月近く経ちます。気にしつつもようやく振り返りを書くことができました。それが「沖縄慰霊の日」に重なりました。為政者から「憲法改正」の言葉が飛び出すたびに、戦後守り抜いて来たこの平和憲法をこれからもしっかりと護持していかなくてはならないと尚更強く思うのです。

 

 

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