おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.03.25column

家庭トーキー映写機と紙フィルム、そして同期して楽しむレコードを寄贈して頂きました‼

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3月21日、京都市内にお住まいの前田様(今年92 歳)から、大阪市西区江戸堀にあった「家庭トーキー製作所」の映写機1台とカテイトーキーフィルム10巻を寄贈して頂きました。

紙フィルムのタイトルは①『月形半平太』1巻②『カチカチ山』上・下の2巻③『弁慶と牛若』1巻(絵:岩田酉介、文:坂井晴男)④『特急忠臣蔵』上・下の2巻(絵:宇高アリキ?、文:中山ヒロシ)⑤『動物オリンピック』上・下の2巻⑥『軍國祭』上巻(絵:岩田酉介、文:坂井晴男)と下巻(絵:岩田酉介、文:木村忠雄)。

奥様の話では、今から70~80年程前に、かつて京都市下京区にあった百貨店「丸物」で、お父様と一緒に出かけていって購入されたもののようです(それが何歳の頃の話か確認が取れずにいます)。

「映写機」と手書きされた箱に大切にしまわれていましたが、「捨てようかと思っていたところ、娘が『ここへ寄贈したら』と助言してくれて」とお聞きしました。当館のことを調べて勧めて下さったお嬢さんに心から感謝しています。貴重な資料を寄贈して頂いたお礼を述べると「こんなに喜んでくださって、役に立てて下さるなら、とても嬉しい」と仰って下さいました。

DSC_1610お嬢さんが、子どもの頃にこの映写機で見せて貰った時のことを覚えておられて、「良く映ったですよ」と仰っておられたとか。100ワットの光源が2個もありますから、東京で最初に開発した「レフシー」の光源1個の映写機よりは、よく見えたことでしょう。

稲葉千容さんがお書きになった論考「紙フィルムと手回し映写機-70年前のアニメ・映画」(『日本人形玩具学会誌』第21号所収、2010年)によれば、「最初に売り出された機種はレフシーA型で、昭和10(1935)年の定価は8円50銭。(大阪にあった)家庭トーキーのユニオン型(おそらく今回寄贈を受けた映写機)は12円50銭」だったそうです。昭和10年の銀行員の初任給が70円、今の銀行員の平均初任給が200,000円とすれば、57,143円になりますから、発売当時買った人は、決して安い買い物ではありませんね。

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映写機に取り付けられていたプレート。

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可愛らしいオウムのイラストのトレードマークが映写機にも、紙フィルムの箱にも描いてあります。残念ながら映写機の箱は残っていませんが、ライオンのおもちゃ映写機の箱を参考にすれば、ひょっとしたら映写機本体の価格や、販売中の紙フィルム、同期して楽しむSPレコードの一覧表などの情報も記載されていたかもしれません。

調べているうちに、「もしや?」と思って、23日に電話をかけて、SPレコードが残っていないか問い合わせをしてみました。そして、昨日24日再訪してSPレコードを見せて貰い、同様に寄贈していただきました。こちらのリストはこれから作成しますが、SPレコード保存用の小引き出し満杯に入っていました。

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 ドキドキしながら、それらを手に1枚1枚見ていくと、

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「あったら、良いなぁ」と願っていた「カテイトーキーレコード」が3枚もありました!!!!!

DSC_1623 - コピー写真は家庭トーキーから販売されていた紙フィルムと「家庭トーキー管絃團」演奏のSPレコード『漫劇 特急忠臣藏』。まだ勿体なくて蓄音機にも映写機にもかけていませんが、いずれそういう機会を設けたいと思っています。

もう一つ「家庭トーキー管絃團」演奏の『漫畫 軍国祭』のセットと、日東蓄音機(株)のニットーレコード『擬聲スケッチ 動物オリムピック放送』のセットもあります。『擬聲スケッチ 動物オリムピック放送』には「石橋恒男」「擬声 石川鳴朗」の名前が載っています。このレコードのように、映写機メーカーとレコード会社が連携していたことも分かります。

レコード盤の文字は、右から左の横書きで旧漢字表記。紙フイルムの表記は、箱の上書きは右から左ですが、ラベルは左から右の横書き(一番上の写真参照)。ネットで検索すると戦後の1946年1月1日から「読売報知新聞」が、1946年12月1日から毎日新聞が、1947年1月1日から朝日新聞が左横書きになっています。ひょっとしたら購入されたのは発売直後ではなくて、それから幾年か経ってからのことなのかもしれません。

おもちゃ映画はモノクロ、あるいは青や赤に染めたフィルムですが、紙フィルムの場合は、カラー印刷が可能な時代でしたので、カラーの絵が楽しめました。日本独自の紙フィルムには、海外から来られた映画研究者が、とても関心を示されます。

稲葉さんの論考によれば、1932(昭和7)年にレフシー製映写機「反射活動写真映写機」が、翌年「反射活動写真映写機に於ける『フィルム』繰送装置」、「『フィルム』接合装置」の実用新案出願が申請され、同年「活動写真映写機」、翌1934(昭和9)年に「帯状活動画の解展(ママ)及巻取機構」の特許が申請されていたそうです。レフシーが登場して、ほどなく家庭トーキーも発売を開始します。

しかしながら、1937(昭和13)年7月の盧溝橋事件(日中戦争開始)から戦時体制に入り、1938(昭和13)年、国家総動員法が公布され、金属が不足することから国内向け金属玩具(ブリキ)の製造が禁止になります。映写に耐える厚手の紙の配給も難しくなって、紙製映写機とフィルムは短命に終わりました。ただ、前田さんの例から、戦前に作られた紙フィルムと映写機は百貨店の玩具売り場で戦後も売られていたのかもしれません。

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これは、『弁慶と牛若』の紙フィルムの一部です。先発のレフシーは、パーフォレーションとなる穴がコマとコマの間に1個ですが、後発の家庭トーキーはご覧のように2つ穴なので、より安定して紙送りができたと思います。タイトルなどは反転して写して確認すると、右横書き。

稲葉さんの文章では、「家庭トーキーのユニオン製は映写機の歯車に連結されたチューブを蓄音機の回転軸に繋ぐ仕組みになっています。ハンドルを回して映写機を回転させれば蓄音機も一緒に回転しトーキーになる」という仕組みだそうです。今回寄贈を受けたのがユニオン製だとしたら、残念ながらチューブがないので、試すこと叶わず。。。でも、タイミングをはかりながら蓄音機でかければ、往時を追体験することはできましょう。

2018年9月9日に開催した研究発表会「木村白山って、何者?」で取り上げた、生没年不詳で謎が多い絵師でアニメーション作家でもあった木村白山は、紙フィルム作品にも自分の名前を入れていました。私自身は未だ実見はしていませんが、声かけをしたコレクター氏がお持ちでした。紙フィルムにつきましては、いずれ当館発行の小冊子でこのコレクター氏の執筆でご紹介できるよう進めています。

今回寄贈していただいた中に木村白山の名前はありませんでしたが、作家名が記載されていた岩田酉介は、大阪にあった製作会社「深田商会映画部」で、ドキュメンタリーの監督やアニメーションの作画・監督をしていた人物です。

昨年11月ストックホルム大学で開催されたメディア考古学学会で、当館所蔵紙フィルムに興味を持たれた米国バックネル大学のエリック・ファデン准教授が、それについて発表されました。その後、彼は紙フィルムを早くデジタル化する機械を工作されたそうなので、次回来日の時にその成果を見せて貰えることを楽しみにしています。

 

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