おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2020.05.05column

2019年12月8日開催「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」の振り返り①

平和2019.12.8A - コピー

昨年12月8日真珠湾攻撃から78年目の日に、お二人の研究者をお招きして開催した「ブラジル移民と満州移民送出の背景を探る」から、もう5ヵ月が経とうとしています。今はその続編として、7月29日~8月30日に開催する企画展「『満州国』って、知っていますか?」の準備をしています。この企画展のきっかけになったのは、今から振り返る12月の研究発表会です。

遅ればせながら、その折りの研究発表内容を、思い出しながら書いてみます。なお、現在では使われていない「満州」という用語が出てきますが、資料をもとにしたものなので、当時の呼称をそのまま使用させていただくことをお断りしておきます。

DSC03152 (2) - コピー

最初に登壇してくださったのは、近畿大学工業高等専門学校の田中和幸准教授。演題は「ブラジルへの移民を促すために用いた幻燈種板の発見」です。田中先生は、古い建物をどうやって残していくのかを専門に研究されていて、幻燈機の専門家ではないのですが、調査で訪れたブラジルに古い建物が残っていて、それを何とか保存できないかと調査を進め、資料を集めている過程で、演題にもなっている幻燈機用ガラス製種板113枚を発見されました。今回は、その種板を見つけて分かったことについてお話しいただきました。

DSC03151 (2)1908(明治41)年より日本からブラジルへの集団的な移民が開始され、約13万人が移住しました。一般的には日本人が騙されて渡ったという認識がありますが、地域によっては成功した人たちもいました。最初期に設立された企業組合「東京シンヂケート」は、桂太郎首相の後援により渋澤栄一を創立委員長とする伯刺西爾拓殖会社が、事業を継承します。

サンパウロの鉄道沿いに点々と日本人の移民先があり、相当数の移民住宅が建設されました。コーヒー豆を作り、それを収穫して、鉄道で輸送する労働力をブラジルが求め、日本人を出稼ぎに行かせるために政策をとりました。

3~4年前に初めて田中先生がブラジルへ行かれた折の写真を見せて貰いました。サンパウロからバスで4時間半かかるレジストロには、日本人が移民した当時の建物が多く残っています。今も灯籠流しや餅搗きなどの行事が定期的に行われているそうです。リベイラ川を渡って日本人移民が到着し、上陸した場所には今も鳥居が残っているほか、当時のレンガ作り建物がリノベーションされてイベントなどで活用されている例もあります。

(短冊形の敷地が描かれた古地図を指し示しながら)移住した人たちはこの区画地図を渡されました。「そこを開拓しなさい」というわけです。1区画の大きさは、250㍍×1㎞の広さ(1軒あたり)。狭い日本を飛び出した移民にとっては、さぞかし広大に感じられたことでしょう。レジストロの中心から端まで、車で走っても45分かかるそうです。「当時の人々が、牛馬や徒歩で物を輸送するには、どれほど大変だったか」と田中先生。現地に残る建物は、だいたい昭和の初めのもので、文化財になっている建物の写真も見せて貰いました(修復保存のやり方、考え方は、日本ではちょっと考えられないやり方だそうです)。

一攫千金を狙って日本からブラジルへ行ったけれども、最初に渡った人々は、あばら屋に住み、奴隷のように扱われて、あちこち夜逃げしたりと大変な苦労でしたが、そのうちに、もっと良い方法がないかと日本も考えるようになりました。そこで登場したのが永田稠(しげし)という人物(1881年長野県諏訪郡豊平村下古田、現在の茅野市生まれ)でした。彼はレジストロを中心に調査して、第二世代の大正から昭和の初めの成功者たちの家の写真を撮りました。その写真を幻燈機で見せることによって視覚的にアピールしながら、よりブラジル移民を増やすそうと全国各地で講演しました。

その時使用したガラス種板が「日本カ行会(りっこうかい)」に所蔵されています。勉強不足で初めて知った「日本力行会」ですが、ネットでそのあゆみを知ることが出来ます。1897(明治30)年にキリスト教の牧師だった島貫兵太夫が東京に開設した苦学生支援組織から発展し、彼らのために寄宿舎を持ち、アルバイトの斡旋をしたり、協賛する私学で学ぶ場合は学費の軽減や入学金免除などを働きかけていました。石川啄木も止宿しています。当時労働力が不足していたアメリカやカナダに貧しい青年を送り込んで、お互いに助け合って勉学を続けるネットワークを持っていました。1913(大正2)年島貫は永田稠に対し、第二代会長になるよう遺命を送り、48歳で死去。翌年北米から帰国した永田は第二代会長に就任します。

さて、その日本力行会が所蔵する種板179枚は、信州大学人文学部の和田敦彦先生が調査されていて、「幻燈画像史料の保存と活用について 日本力行会所蔵史料を中心として」(『内陸文化研究』2号、2002年3月発行)で読むことが出来ます。永田稠は、1921(大正10)年に『南米日本人写真帖』を出版しています。カメラマン渡辺アキハルと一緒に南米へ行って写真を撮り、それをスライドにしました。

DSC_1676田中先生所蔵種板には「浅草蔵前池田製」と書いてある正方形のものと、もう一つ長方形の「鶴淵幻燈鋪」のものがあります。当時はイギリス式とアメリカ式のものがありました。

DSC_1679幻燈種板そのものは、埼玉県川越の大店など他からも見つかっていますが、「実際にどのようなものか見てみたい」と、昨春、おもちゃ映画ミュージアムに来て下さったのが田中先生との出会いの最初でした。

tanaka004tanaka056

当館所蔵池田都樂製幻燈機をご紹介してくださっている様子と、その時見せていただいたガラス種板の一部。文字だけのものや、モノクロやカラーのものもあります。中には、天地が逆になっているバナナの種板もあり、バナナを見たことがない人が文字を書き、写真を撮った人とは異なるという事情が種板から窺い知れます。

日本力行会の種板と田中先生所蔵の種板を比べると、同じものが9枚しかなく、92%が別物でした。また、野田が書いた『南米日本人写真帖』と比べると、日本力行会にあるものもあれば、田中さんがお持ちのものもありました。和田先生の論文によれば、日本力行会の種板は全て82㎜×82㎜です。

もう一人、外交官としてブラジルに派遣され、あちこちを視察した野田良治という人物もいました。彼は1912(大正元)年に『世界之大宝庫南米』を出し、この本は大ベストセラーになりました(国立国会図書館のネットで見ることができます)。永田が出した『南米日本人写真帖』には、野田良治も写っていることから、二人は何らかの関係があったと思われます。

『世界之大宝庫南米』は野田良治がブラジルを視察した報告書で、その中に野田が自分で撮った写真だけでなく、古いブラジルの本にポルトガル語で書かれた写真と同じカットのものも含まれていたので、ちょいと拝借したのかもしれません。『世界之大宝庫南米』に差し込んだ写真と同じ種板が、日本力行会と田中先生所蔵種板に含まれていました。

他にも長野県宮田村に保存されている幻燈師岸本與が使用していた種板と、日本力行会所蔵種板と同じ分類のものもあり、今のところ、ブラジル移民に関する種板は①日本力行会②宮田村③田中先生の3カ所にしかありません。

野田良治が本に差し込んだ写真は297枚。「現存するブラジル移民に関する3種類の種板の中で、基になった写真の一番古いのは、この『世界之大宝庫南米』掲載のものではないか」と田中先生。野田の講演原稿が残っていて、そこには「ブラジルはこんなところと話す時に、幻燈を用いて話した。素人の自分が撮った写真を、幻燈屋さんに作らせた」と書いてあるそうです。「野田良治はブラジルに関する幻燈を用いたパイオニア的存在ではないか。その彼が永田稠らと出会うことで、ブラジルに関する幻燈種板があちこちに展開していったのではないか」と田中先生

文字起こしした野田の講演文章に「ここは」「これは」とある箇所に当てはまる種板があり、前述の逆さまバナナの種板もきっちり合うのだそうです。

もう一つ、「信濃海外協会」と記された種板は、田中先生所蔵のみだそうです。「信濃海外協会」は、前述の「あゆみ」を見ると、1922(大正11)年に永田稠が尽力して設立しています。『南米日本人写真帖』を出版した翌年のことです。田中先生の種板は、野田良治が使用したものを長野県(信濃国)用として、岸本與によって講演された可能性が推察されるとのことでした。こうして調べていくと私も、永田稠の仲介で野田良治が使用した種板を岸本與が使用して、各地で催した幻燈会でブラジルでの成功例を紹介しながら、「どうだ、良いところだぞ」と移住を促していたのだろうと想像します。

まとめとして、南米を写した幻燈用種板のうち、田中先生所蔵と日本力行会所蔵は、野田良治が1912(大正元)年に出版した『世界之大宝庫南米』と永田稠が1921(大正10)年に出版した『南米日本人写真帖』に掲載した写真を基に、ブラジル移住を促進するために分割した可能性があります。また、日本人のブラジル移民政策を押し進めるために、永田稠が幻燈機用の種板を用いた講演を積極的に行っていたことは広く知られていますが(恥ずかしながら私は初めて知りました)、それよりも早い時期に、幻燈機用種板を用いてブラジルを紹介していた人物に野田良治が確認できました。今回の研究発表で、田中先生所蔵と日本力行会所蔵の種板の中には、野田が行った講演録に該当するものがあることも明らかになりました。

IMG_20200428_0001

当日参加いただいた国際日本文化研究センター機関研究員の根川幸男先生(下掲写真の前列一番左)から、2017年12月に一般財団法人日伯協会から発行された上掲冊子を頂きました。兵庫県神戸市がこの年、開港150年を迎え、翌2018年が日本人の海外移住150周年、ブラジル移住110周年に当たることから同上展が開催され、その内容をもとに先生が執筆されました。

第2章に「ブラジルへの移民は、1908(明治41)年の笠戸丸移民からはじまりました。1924(大正13)年には、アメリカで『新移民法』(いわゆる排日移民法)が成立したため、日本の海外移民は当時最大の移民受け入れ国のブラジルへ向かうことになりました。さらに、1920年代の半ばから、南米移民〔主にブラジル移民)は、日本政府によって国策化されます。その一環として、1928(昭和3)年、神戸に国立移民収容所が誕生。こうして、神戸には、ブラジルへ渡るため、北は樺太・北海道、南は沖縄まで日本各地から人びとが集まり、移民船に乗って出発しました」とあります。会場には、ブラジル移民の親戚だという人も聴講されていました。

DSC03163 (2) - コピー

この日の発表は、全体として予定を遙かにオーバーしてしまいましたので、2番目に登壇頂いた安岡先生(前列左から二人目)と田中先生の対談時間を端折り、アメリカが撮影したニュース映像(真珠湾から神風特攻の記録、ヨーロッパ戦線など)は、この後の懇親会でご覧頂きました。不手際を心よりお詫び申し上げます。

多くの方から「内容が充実していた」との声を頂戴し、企画して良かったと心底思いました。今回振り返りを書きながら、いろいろ勉強し、なおさら8月の企画展を意味ある催しにしなければという思いでいます。

 

記事検索

最新記事

年別一覧

カテゴリー