おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2023.11.07column

「勘亭流」書家井上玉清さん、「まねき書き」9年お疲れさまでした!

昨日京都新聞夕刊1面に載った京都南座吉例顔見世興行の「まねき書き」の記事。恒例のこの行事を一度は書家井上玉清さんに教えて貰って、妙伝寺で見学したことがあります。その井上さんが昨日の写真には写っていません。「あぁ、無事に後継者の方に引き継がれたのだ」と安堵の気持ちで見入りました。9年間も毎年重責を担って来られたのですから大変だったでしょう。本当にお疲れさまでした。

労いのメールをお送りしたところ、「私はまねき看板を書くだけの体力が無くなってきたのと、四代で100年続いたタケマツ一門の最後の職人としては、私でまねき書きの伝統を終わらすわけにはもいかず、五代目川端清波に新しい100年の礎になってくれることを願って交代致しました。彼は三代目に師事し指導を受け、三代目亡きあと私がサポートして本日を迎えることが出来ました。そういう意味では、タケマツ一門の一人とも言えますね」と返事がありました。

そして、こちらは今朝の京都新聞社会面。毎年紙面を飾っていたのは、井上さんがまねき板に座って、縁起を担ぐ独特の書体「勘亭流」で顔見世の舞台に立つ役者さんのお名前を墨書されるシーンでしたが、今年から川端清波さんに代わりました。手前に、既に書きあがった「市川ぼたん」さんのまねきが写っています。女性の看板は半世紀ぶり以上だそうです。もう12歳になっていたのですね。

勘亭流は隅々までお客様で満員になるよう、隙間が少ない形に書きます。お習字と違って書き順にはこだわらずに、絵を描くような感覚でバランスを見ながら筆を運んでおられたのが印象的でした。その始まりは、井上さんも出版に尽力された『京都繁華街の映画看板 “タケマツ画房の仕事”』(2009年、竹田耕作・竹田啓作/編著)を参考にすると、安永8年(1779)江戸日本橋に住む御家流の指南役、岡崎屋勘六が中村座の九代目中村勘三郎丈の依頼に応じて書いた新春狂言「御贔屓年々曽我」の看板が最初とされ、署名が「勘亭」となっていたことから「勘亭流」と称されるようになったのだそうです。

大正時代南座が新しくなった時に、まねき看板を誰に任そうかという段になって、松竹の白井信太郎氏が大阪で見つけてきたのが竹田耕清(本名:猪八郎)さんでした。後に画家の松本利一さんと一緒に「タケマツ画房」(1948年12月)を設立し、京都の河原町や新京極にあった松竹系映画館の看板を手掛けていました。そして師走の顔見世興行の前になると、耕清さんのまねき書きの出番。
戦前の歌舞伎が盛んだった頃には200枚もの看板が上がったそうです。写真は前掲『映画看板“タケマツ画房の仕事”』から拝借しましたが、凄い眺めですね。
 
時代が進み、二代目は佐治永清さん、三代目が川勝清歩さん、そして4代目が井上玉清さん、そしてこの度、五代目の川端清波さんに引き継がれたという次第です。皆さん、初代の耕清さんの「清」一文字を継承されています。
 
まねきの板は大切にされ、毎年板を削って、その年出演する役者さんの名前を「勘亭流」で書きます。当館の玄関小屋根に上げている「玩具映画博物館」の文字は、井上玉清さんが2016年12月に書いて下さったもの。その時のことは、こちらで書いています。
屋根に上げる時「苔むすまで上げ続けて」と言われプレッシャーを感じたものですが、まねき看板には見られない「玉清」の落款が押してあります。その重みを今更ながらヒシと感じています。

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