2026.10.19column
この秋のフィル―ルド・ワークから③
せっかく東京へ行ったのだから、京橋の国立映画アーカイブで開催中の『没後70年溝口健二展』を見たかったのですが、時間が無くなったので断念。

これは10月8日付け京都新聞。これまで届いていた展覧会や上映会の案内チラシが経費節減のため届かなくなってしまい、どうやらニューズレターもなくなったようです。代わりに、館内にはサイトから印刷して展覧会の掲示をしています。とりわけ特集コーナーが見たかったけれど、しかたがない。
それで、というわけではありませんが、9月29日京都市東山区岡崎法勝寺町にある溝口健二監督の碑を訪れました。

日蓮宗の示現山満願寺(じげんざんまんがんじ)。この山門の奥に、溝口健二監督の碑が見えています。

本堂向かって右手に「溝口健二之碑」があります。

「世界的映画監督溝口健二ヲ偲ビテ 一九五六年十一月永田雅一建」、大映社長永田雅一が建碑したと記しています。

「昭和三十一年八月二十四日逝 行年五十八」。次回作『大阪物語』準備中に、体の異変を感じて受診し、急性白血病がわかり即入院。現場に再び戻ることなく旅立たれました。満58歳。さぞかし無念だったでしょう。

「大日本国璽」と書かれているのでしょう。亡くなった後に、時の内閣総理大臣鳩山一郎氏から「勲四等瑞宝章」が授与されています。その栄誉を称える碑なのですね。

碑の傍に「大阪物語」の碑も建っていました。溝口健二監督の思いを引き継いだ吉村公三郎監督が、中村雁治郎と浪速千栄子を主演に据えて完成させ、1957年3月6日公開。原作は井原西鶴、脚本は依田義賢が手掛け、毎日映画コンクールで脚本賞を受賞しています。
本堂を背景に「溝口監督之碑」を撮りました。

表門、本堂、拝殿、書院、庫裏(向かって右)、鐘楼、文子天神社などが建ち、江戸時代前期の建立で、日蓮宗伽藍建築の典型だそうです。天景3(990)年、北野朝日寺の最珍を開山として建立したと伝わり、当初は真言宗で西の京にありましたが、元禄10(1697)年に日蓮宗へ改宗し、元禄15(1702)年に現在地に移転。宝永元(1704)年にかけ造営され、京都市内に残る日蓮宗の一般寺院本堂の中では古い方だそうです。

「俊寛僧都故居之碑」は1887年に建立されました。後白河院の近習僧となった俊寛は、1177年平家横暴に抗し、平氏打倒計画を立てる謀議に関わり、平清盛によって捕らわれます。薩摩国鬼界ケ島に配流され、彼はその地で没します。『平家物語』、能、浄瑠璃、歌舞伎の題材にもなっている話です。なぜ、この寺に碑を建てたのか?永田雅一は熱心な日蓮宗信者だったからでもありましょうが、溝口健二も戦後、特に昭和20年代後半から日蓮宗に傾倒していったようです。ひょっとしたら二人とも俊寛僧都への共感の思いもあったのかもしれないなぁと勝手に想像しています。
8月30日に青山斎場で大映による溝口健二監督の社葬が営まれました。東京都大田区の池上本門寺の子院である大坊本行寺に墓が建てられ、京都でも活躍していたことから、縁の人々がいつでもお参りできるようにと京都の満願寺にも分骨されました。Wikiによると、溝口の訃報は、開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられたそうです。

大坊本行寺の溝口健二の墓(ネットから引用)。訪れたことはまだありませんが、正面の「溝口家之墓」の右隣に「溝口健二記念碑」もあります。

前回の「百花繚乱」繋がりで言えば、池上本門寺は名だたる著名人がたくさん眠る寺院で、「墓域の百花繚乱」と紹介している人がいました。溝口健二監督も、永田雅一大映社長の墓もここにあります。日蓮上人入滅の霊場、大本山です。そういえば、永田雅一は信仰から、映画『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)や『日蓮』(1979年)も作っていますね。二人がここに眠るのは、大映社長としての永田雅一と映画監督としての溝口健二、双方の深い師友関係と信仰の共有の要素が重なった結果でしょう。溝口監督自身の信仰に沿うとともに、溝口を「我が弟」「大映の宝」と深く愛した永田雅一が、溝口の功績に相応しい格の高い日蓮宗の本山に墓所を準備した永田の深い愛情に心打たれます。


