2018.03.26column
3月24日の映テレ京都支部勉強会で、お宝アニメ『黒猫萬歳』発見! そして、若き草創期アニメの研究者現る‼
3月24日午後、日本映画テレビ技術協会京都支部の勉強会をしました。テーマは「京都における映画・映像アーカイブの現在と未来」。一般の人も無料で参加できるというので、私も聴講しました。
まず、支部長の関口讓さんがご挨拶。
第1部は当館館長が「おもちゃ映画ミュージアムの設立趣旨と活動紹介」の題でお話をさせてもらいました。
1971年に大映が倒産し、京都の映画界が衰退します。時代劇がなくなり、代わって任侠映画が全盛になります。それまで、撮影所は人材育成の場でもありましたが、それができなくなりました。同じ1971年大阪芸術大学に映像計画学科(現・映像学科)ができました。1972年に大映京都の技術者が離散するの防ぐために「映像京都」ができます。市川崑プロや勝(新太郎)プロもでき、私も撮影現場を経験しました。大映労組だけでなく東映、日活などの監督たちもテレビ映画に活路を見出し、見方によれば、面白い時代でもありました。京都府がフィルム・ライブラリー事業を始めたのもこの頃で、日本映像学会も創設されました。人材育成、アーカイブ、映画研究へと進む中心には、脚本家の依田義賢先生がおられました。1973年にキャメラマンの宮川一夫先生と森田富士郎先生が大阪芸大で教鞭をとられるようになり、同学科ではカリキュラムに撮影所と同じシステムを導入しました。
前述のように1980年代にかけて映画会社の弱体化が進み、日本では映画の開発が終わり、テレビに動きます。映画では遅れていた音響と特撮が、先ずデジタルに動きました。ドルビーやデジタル・インターメディエイトです。欧米では、映画製作のフローを、フィルムをベースにしているのは今も変わりません。デジタルでの製作に代わっても、まず原版として、35㎜ネガやマスターポジを残します。映画芸術や映像文化を次世代に残し、継承するためです。
1993年に東京国立近代美術館フィルムセンターが国際フィルム・アーカイブ連盟(FIAF)の正式会員になり、漸く海外の情報が入ってきました。
映画や放送の現場でも、フィルムからハイビジョン、デジタル化という動きが広がります。大学でもビデオかフィルムかの選択が迫られました。偶然、毎日放送が千里のスタジオを整理するというので、三十数台の16㎜カメラを芸大が購入しました。「中古のカメラばかりや」という声もありましたが、「先輩たちの精神がこもったものを学生が継ぐことに意義がある」と訴えました。「映像の基礎教育にフィルムを扱うのは大事だ」と訴えもしました。その16㎜カメラでの映画製作で、熊切和嘉監督や山下敦弘監督ほかの逸材が出てきました。
その頃、傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』に出会います。
1996年に同作品を復元して、1999年にイタリアのポルデノーネ無声映画祭に持って行きました。その時、欧米では、無声映画専門の映画館や映画祭があることを知りました。特に、「グリフィス・プロジェクト」という特集には衝撃を受けました。アメリカのD.W.グリフィスは生涯で450本以上の映画を作りましたが、散逸したのは僅か2、3本だけ。ほぼ全ての作品が残っているのです。それらの映画を何年もかかって毎年上映しています。翻って日本の状況はというと、約千本出演したといわれている尾上松之助は、当館のおもちゃ映画も含め、残っているのは10本もありません。余りの差に愕然としました。フィルムが残っているところは、フィルムを捨てません。日本は残っていないから簡単にデジタルに動きました。
よく「フィルムを保管する倉庫がない」と言いますが、フィルムは財産だと考えるべきです。欧米では、フィルム見直しの機運も出てきていますし、バックアップの一つとして考えられています。比べて日本人は、新しいものにすぐ飛びつきますが、冷静に距離を置いて見ることが必要です。正確な言葉は忘れましたが、松下幸之助さんが確か「一番手でなく、二番手で良い。誇りを持て」とおっしゃっています。「松下」を「まねした」と蔑まれても、二番手で見ると、世の中の動きが良くわかるという意味だったと思います。後から行く方が発展する方向性がわかるという確信からです。日本はデジタル一辺倒ではなく、フィルムとの双方向の研究が必要です。フィルムをなくしてから、ボーン・デジタルの作品をどう保存しようかという考えは危険です。
これは、2014年9月に映画関係の仲間と一緒に京都市長さんに面談し、提案した「京都映画ミュージアム」/「京都映像文化振興センター」(仮)構想の一部です。「映画のまち京都」と言われながら、京都の映画界は衰退の一途ですが、それを食い止め、発展して行くために、映画人が集まれる場を設け、センター機能を持たせること、技術の継承も含め、資料類や映画に関する遺産の散逸を防ぎ、それらを集積した映画ミュージアムを作る必要性を、まとめたものです。海外の状況も調査し、分厚い資料を手に説明しましたが、 市長さんから返ってきたのは「費用がない」の一言でした。
フィルム保存は、時間との戦いでもあり、待ったなしの状況です。それを救出するための拠点が必要だと考えました。2015年1月に一般社団法人京都映画芸術文化研究所を発足させ、5月18日に「おもちゃ映画ミュージアム」を開館しました。お金が無いなら無いなりの動き方があるという姿勢を見せたかったのです。昨年「京都の映画祭連絡協議会」を発足させました。海外の著名な国際映画祭は、ベルリンや、カンヌなど1か所に集まり、世界中から人々を集めますが、それには歴史が必要です。そこで、京都にある映画祭が月々に、バラバラにあることを逆手にとり、「京都の映画シーズン」として情報発信を一つに集約し、連携して互いに応援しようという考え方です。それぞれの映画祭は規模も資金も小規模で運営は大変ですが、「京都は映画のまち」その思いを共有することで、みんなで力を合わせながら今後も発展させていくことに尽力したい、と話して終えました。
第2部は、㈱吉岡映像代表・吉岡博行さんによるアーカイブ映像上映とその解説。1998年から映画フィルムの修復を始め、世界初のマイクロフィルム修復の新技術で特許を取得されました。この日は、これまで修復された映像の中から、映像提供者にお礼に渡されていたDVD『おもひでシアター』を見せていただきました。DVDケース裏面には「この映像は昭和初期から30年代にかけて市民が撮影したものや家庭で観られていたフィルムをテレシネ・DVDにしたものです。私たちはこういったアーカイブを通じて社会に貢献できればと考えています。ご家庭に古いフィルム等があればぜひ、声をおかけください」と書いてあります。
◆遠い記憶をたどって/京都編◆
昭和3年:岩倉 松茸狩(16㎜)=家族で楽しんだ松茸狩りの記録。当時は大きなマツタケが、仰山採れていたのですね▼昭和5年:石清水八幡宮(16㎜)=初詣の記録。写っていいる子どもたちが皆、黒いマスクをしているのが気になります。上から眺めた木津川の流れも▼昭和5年:清滝・愛宕山鉄道(9.5㎜)=嵐山から鳥居本、トンネルを抜け、清滝への鉄道。清滝から愛宕山へのケーブルカーも、戦時中に鉄材の必要から拠出され、廃線になった貴重な映像です。昭和19年に廃線▼昭和10年:嵐山・十三まいり=渡月橋を渡った南岸の法輪寺へ知恵を授かりにお参りするのは今も変わらぬ光景▼昭和12年:植物園・葵祭=戦前のコダック製カラーフィルムで撮影したもの。緑や青が退色して全体に赤い映像に▼昭和18年:中京区国民学校運動会=戦中の運動会ということもあり、竹槍やバケツリレー、剣道もありました。ブルマ姿が懐かしい。大人が米俵を担いで走る競争も▼昭和36年:チンチン電車 北野線=今は暗渠になっている堀川通や西陣京極の映画館も写っていました。昭和36年に廃止に▼昭和30年代:上七軒の暮らし=京都で最も古い花街上七軒のお正月風景。お雑煮を食べて、北野天満宮へ初詣。端午の節句の様子など、慈しみ育てられた子どもの様子が記録されています。 以上8本
◆昭和初期のアニメ
シンデレラ(9.5㎜)フランス製▼アリとセミ(9.5㎜)=イソップ童話の一つ。フランス製。日本では「アリとキリギリス」の題で▼猫のフェリックス君「空腹の巻」(9.5㎜)=アメリカ生まれのアニメーション。主人公は黒猫のフェリックス▼證誠寺の狸囃子(9.5㎜)=当時は、伴野商店が製作したこの作品にビクターレコードを合わせて、聞いて、観て楽しみました▼玩具の行進(8㎜)=猫のフェリックスやミッキーマウスのそっくりさん、キューピーさんも登場する日本のアニメーション。 以上5本
◆おまけ◆
ソニー坊やの歌(6㎜音声オープンテープ)=昭和33年頃に、ソニー製テープレコーダーに付いていた視聴用テープ。歌がダークダックス、作詞が飯沢匡、作曲が服部正と豪華な顔ぶれ。
最後に関口さんが終わりの挨拶をされて勉強会が終了し、この後は賑やかに懇親会。参加者の一人『映画探偵 失われた戦前映画を捜して』(2015年、河出書房新社、)著者の高槻真樹さんが、吉岡さんに見せていただいた映像の中の1本『玩具の行進』が滅多に見られない『黒猫萬歳』であることに気付かれたので、一気に意識がそこに集中してしまいました。日頃からお世話になっている渡辺泰先生と山口且訓さんが書かれた『日本アニメーション映画史』(1978年、プラネット発行)に掲載されていた1枚のスチール写真を覚えておられたことにびっくりしました。
これが、『日本アニメーション映画史』211 頁に掲載されたスチール写真
そして、これが『玩具の行進(実は『黒猫萬歳』)』の一場面。高槻さんが神戸映画資料館の安井館長に尋ねられたところ、16㎜の『黒猫萬歳』を所蔵されていて、それをもとに35㎜にブローアップしたフィルムが東京のフィルムセンターにあるそうです。その後のやり取りで、安井さんは「冒頭もラストもないような気がしていて、8分くらいのものだった」と教えてくださいました。
吉岡映像さんは、九州の方から依頼を受けてDVDに復元されましたが、フィルムは依頼者に返したそうですから、そのフィルムがその後どうなっているのかが気になります。こちらは約7分ですが、映写スピード差の問題かもしれません。こちらも冒頭部分は欠落していますが、おもちゃ軍がミッキーマウスそっくりの悪ネズミに勝つというラストまでしっかりあります。両者を比較して見れば面白いかもしれません。高槻さんが調べたところでは、具体的に、上映された記録はないそうです。
『日本アニメーション映画史』の『黒猫萬歳』の項目によれば、1933(昭和8)年9~12月に現在の東宝の前身にあたるJ.Oトーキー漫画部の中野孝夫、田中喜次、舟木俊二、永久博郎によって作られたオモチャ箱シリーズの第2作。
そこに掲載されている略筋を元にすれば、欠けている冒頭は「おもちゃ達が楽しみにしていたお正月がやって来た。おもちゃの軍隊のマーチで鏡餅を先頭にパレードが始まった」ということになるでしょうか。切紙アニメーションです。吉岡映像さんがお礼に配っていたDVDに、実は貴重なアニメーションが含まれていたというのも面白い話です。みんなで見ると、こうした気付きに繋がります。
さて、この作品への関心で頭がいっぱいになっていたところ、昨日は4月に高校2年生になる谷廣和哉さんが初来館。古いアニメーションを見たいというので、余計なことは言わずに早速『玩具の行進(『黒猫萬歳』)』を上映したところ「この作品は『日本アニメーション映画史』にスチール写真が載っていたのと同じです」と直ぐに返ってきたので、ひっくり返らんばかりに驚きました。「どうしてわかったの?」という問いかけに、「戦前のスチール写真が載っているのが少ないので、印象に残った」そうです。聞けば、小さいころからアニメ―ション研究をしていて、最初は外国のアニメから始まって、今は国内のものも範疇なんだとか。
当館所蔵アニメーションに、いくつか「製作年、製作者不詳」と書いているものの手掛かりがあるようで、わかり次第教えてくれるそうです。昨年国産アニメ誕生100年の企画展で大活躍だった新美ぬゑさんが次に来館される時には、必ず紹介するからと約束をして見送りました。まったく将来が楽しみな存在です! 当館のアニメーションに関する若き知恵袋現る!! 本当に凄い!!!