おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.12.04column

12月2日研究発表・シンポ「朝日会館と京阪神モダニズム」を聴講して

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昨年7月15日に研究発表「1920年代の映画館楽士と楽譜ー早稲田大学演劇博物館所蔵『ヒラノ・コレクション』の分析と活用」をして下さった白井史人さんに上掲催しを教えてもらったので、「朝日会館」の名称に惹かれて大阪大学豊中キャンパス大阪大学会館に出かけてきました。良ければ、昨年の白井さん研究発表会の様子こちらで書きましたのでご覧ください。

なぜ、「朝日会館」の名称に惹かれたのか―というと、今年10月6日に開催したアニメーション史研究の第一人者渡辺泰先生(84歳)のトークイベントで、「まだ子どもだった頃、毎年正月になると、大阪の朝日会館に親に連れて行ってもらうのが我が家の恒例行事だった。そこで、フライシャー、ディズニーなど様々なアニメーション映画を見た。同じ時期に手塚治虫さんもお母さんに朝日会館に連れて来てもらってアニメーションをご覧になっていた。ひょっとしたら、子どもの頃に僕は手塚さんと朝日会館で出会っていたのかもしれない」と話されました。渡辺先生から何度も「朝日会館」の名称を聞いたこともあり、「朝日会館」は特別の意味がある場所だったのだろうと興味をもったのです。チラシ中央に写る黒っぽい建物がその朝日会館。1926(大正15)年に総合的な文化施設として作られ、1962(昭和37)年に閉館しました。

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写真は、シンポジウム会場の大阪大学会館。初めて訪ねました。1928(昭和3)年旧制浪速高等学校の校舎として建てられ、歴史ある建物を大学のシンボルとして今も活用されていることが評価されて、2004年に文化庁の登録有形文化財指定を受けました。会場は、この建物2階「アセンブリーホール」。

チラシにある通り、文化芸術発信拠点としての中之島、演劇、美術、能楽、映画、会館で働いた人や組織、京都と名古屋の朝日会館、子ども対象の事業、朝日会館学生音楽友の会(AGOT)の活動と、朝日会館と『会館芸術』について多岐にわたる項目で研究者10人の発表が続きました。それぞれ持ち時間が質疑応答も含め25分と短いので、早口で、合図に急かされて端折る場面も多く、もっとゆっくりお話を聞けたら良いのに、もったいないなぁと思いながら聞いておりました。

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最も興味深かったのは、シンポジウムの途中で紹介された肥田晧三さん。90歳を超えておられるかもしれません。大阪の近代資料に関する収集家で、同会館内で展示されていた朝日会館に関する資料のほとんどの所有者だそうです。

大変明瞭にかつての朝日会館の様子を覚えておられて、「交響楽団の演奏など、朝日会館に行ってよく聞いた」と昨日のことのように鮮やかにお話くださいました。「朝日会館・『会館芸術』研究会」代表の前島志保・東京大学大学院情報環・総合文化研究科准教授が手にしておられる「万才オリムピック」のポスターも肥後さん所有で、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックがあった時のもの。「皆さんにお目に掛けようと思って」と持参されました。朝日会館は吉本興業と提携して、エンタツ・アチャコを呼んで毎年の同情週間の時に賑やかに開催していたそうです。ポスターにある「同情週間」は、今日も引き継がれている「歳末助け合い運動」なのでしょう。

肥田さんを見ていると、渡辺先生と重なって見えてしまいます。お二人ともインターネットなどもされず、きちんと脳に刻まれた記憶をもとにお話されて、唯々驚嘆するばかり。素晴らしいです。その肥田さんがおっしゃった一言が、印象深かったです。「そこに行けば文化人になったような気になる」。これは、当時朝日会館を好ましく思い、せっせと通った経験がある人に共通する思いではないかと思うのです。特別な場所の意味はここにあったのでしょう。ここで自分を高める文化的な経験ができたのです。

朝日会館の子ども関連事業について、1930年5月~翌年4月の「社団法人朝日新聞社社会事業団事業報告には、「『なってしまってから』の慈善的行為より『ならぬさき』の社会事業に立脚し、殊に次代の健全なる社会建設を企画し児童方面に主力を注ぎつつあり」(奈良学園大学の山本美紀先生が配布された資料から)とありますので、良い子どもたちを育てるために企画された事業の中に、毎年恒例の子ども向け映画会もあったのでしょう。渡辺泰先生は先のトークイベントで「最も古い記憶はフライシャーの“The Playful Bears”'だ」とおっしゃっていました。『会館芸術』の研究がさらに進めば、どのような映画を子ども向けに選んで上映していたかもわかりますね。

 この建物内で開催されていた朝日会館についての展覧会で、掲げてあった前島志保先生の文章をお読みいただくと、朝日会館とこの研究会のことがわかりやすいと思います。

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各研究者の配布資料や掲示されていた資料の中から、自分に関心があるものを拾えば、朝日会館から刊行されていた総合文化雑誌『会館芸術』(1931~1953年)誌面から映画音楽論と上映の関係を調べた白井さんの配布資料に、掛下慶吉が1935年11月号で言及した「トオキイ音楽作曲家とそのレコオド」の中に、アベル・ガンス監督『ナポレオン』(1927年、無声映画)の作曲家アルチュール・オネゲルを上げていること。『ナポレオン』は、日本に35㎜フィルムが入ってこなくて、17.5㎜が上映できる限られた館でしか上映されませんでしたが、朝日会館ではどうだったのでしょうか?演奏形態も含めて興味があります。

もう一つは、国立映画アーカイブの紙屋牧子さんの発表で紹介された朝日新聞に掲載された朝日会館の広告。

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縁あって後年、連れ合いらが傾向映画の代表作として知られる『何が彼女をそうさせたか』を字幕復元したのですが、その公開当時に、朝日会館で3月4日18時半から上映され、鈴木重吉監督、主演の高津慶子さん、製作した帝キネ幹部数人と登壇して特別講演もされたことを知りました。しかも、これも有名な伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』と併せての上映‼ 両方とも左翼的な作品。

ちなみに、紙屋さんの発表によると、朝日会館で最初に上映されたのは、アメリカ映画の『お転婆キキ―』(1926年、クラレランス・ブラウン)で、開館記念イベント「映画の夕」と銘打ってなされました。この時は、9巻の本作を松竹座管弦楽団の伴奏と当時の関西弁士の重鎮であった松木狂四郎の解説付き.

映画伴奏を松竹座管弦楽団が担っていたというので、ふと思い出したのは、松竹座楽士の中に、国産トーキー第一号、『マダムと女房』(1931年)の土橋式トーキーを作った土橋武夫、晴夫兄弟がいたということです。以下2枚のスクラップは、鈴木重吉監督のご息女から寄贈いただいたものです。

何がトーキー

何がトーキー2彼らは、『何が彼女をそうさせたか』のトーキー・バージョン(レコードトーキー)を作成するにあたり、演奏を依頼され、東京大森にあるイーストフォンのスタジオで同時録音撮影に立ち合いました。このことが、トーキー開発を行うきっかけになったそうです。サイレントからトーキーへの変革期でした。

シンポ後の交流会で白井さんに、11月20日に見学した周防正行監督の『カツベン!』で楽士さんを10人揃えておられたことを話すと、東京での白井さんたちの研究発表を周防監督が聴講されていたようだと教えてもらいました。さすがです‼

研究会の成果発表を聞いて、戦前期、関西モダニズム運動を牽引し、中心的役割を果たした朝日会館と総合文化雑誌『会館芸術』のことを知りました。2月12日にL.スタレヴィッチ監督『魔法の時計』(1928年)をテーマに催しをした時には、大阪毎日新聞社が果たした役割の大きさを知りました。大阪毎日新聞も関西モダニズム運動牽引の一翼を担ったでしょうから、そうした話も聞いてみたいものです。

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