おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.06.12column

研究報告:前編「新資料発見‼稲畑勝太郎がリュミエール兄弟に宛てた書簡4通について」終える

6月5日から開始した資料展「京都映画産業の礎を築いた二人の偉人、稲畑勝太郎と横田永之助」(内容については、こちらでも紹介しています)は、8日の交流会の席で参加者から「ゴッド・ハンド」の単語が飛び出すほど強運の持ち主・長谷憲一郎さんの頑張りで実現するものです。多くの研究者が日本映画草創期の史資料を求めて、稲畑さん、横田さんゆかりの会社や人にあたっても、これまで見付け出すことが出来なかった資料類を、その手で見付け出されたのですから。

一般の見学者がご覧になったら、ひょっとしたら点数的には「えっ、これだけ?」と思われるかも知れません。けれども、展示されている資料類はどれもみな、日本の映画の始まりを知る貴重なものばかりで、本当に「良く見つけられたなぁ」と居合わせたみんなで、その功績を称えました。

8日と15日の2週にわたって、長谷さんから、稲畑と横田についての資料発見の経緯と新資料の意義について研究発表して貰う場を設けました。前編にあたる6月8日は、稲畑勝太郎を取りあげ、稲畑がフランスのリュミエール兄弟に宛てた4通の書簡について発表して貰いました。今のように気軽にコピーをとれる時代ではありませんから、リュミエール兄弟へ送った手紙の内容を自分の控えとして書き写した自筆文章です。質問コーナーで「リュミエール兄弟からの手紙は残っていないのか?」と盛んに出ましたが、参加して下さった稲畑産業広報担当の方にお聞きしても「残っていない」と仰っていました。自分が書いた手紙を書写して残す生真面目さですから、もし、リュミエール兄弟から書簡が届いていたとしたら、きっと残していたと私的には思います。それとも、返事は後述のコンスタン・ジレル宛に指示という形で届いていたのでしょうか?いつか、何らかの形でも見つかれば良いなぁ、と夢見ながら聞いていました。

稲畑が差し出した手紙は1897年3月18日、4月16日、7月1日付け、10月8日付け。「一通ずつに稲畑のサインが入っているので直筆とわかる。西洋の文化に触れたからこそ真似たという人柄もある」と長谷さん。ネットで検索すると、リュミエール博物館は彼らの父、アントワンヌのものであった美しい邸宅を使っていて、その建物は1899年から1902年にかけて建てられたということです。稲畑が差し出した手紙より後の建設になり、「更地にして建てたリュミエール博物館には、残念ながら兄弟がやり取りした書簡などが残っていないらしく、世界中に情報提供を求めておられる」という話も参加者から出ましたので、今回発見された書簡4通はリュミエール博物館にとっても朗報でしょう。書簡は、稲畑産業㈱のホームページで公開されています。

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「映像ディレクターとしてCMなどを手掛けてきたが、45歳の時に、立ち止まって映像の勉強をしようと思った」「博士課程提出の期限が2017年で、丁度映画120周年の年だった。その時、明治末期に5ルートで映画が日本に入って来たことを知って興味を持った」と研究を始める動機から発表が始まり、以降は長谷さんの発表を聞きながら書いたメモから。

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稲畑勝太郎は、リュミエール社が送り出した映写技師・撮影技師コンスタン・ジレルと一緒に帰国し、1897年2月15日~28日まで大阪の南地演舞場でシネマトグラフの公開をしました。これが日本で最初といわれています。が、ほぼ同じ頃にアメリカのエジソン社のキネトスコープが神戸に、稲畑と別ルート(吉沢商店がイタリア人ブラッチャリ―二から購入)のシネマトグラフが横浜に、2ルートのヴァイタスコープが大阪と東京に入って来て、激しい攻防を展開していたことが、4通の書簡からもうかがえます。ジレルと稲畑は、明治の日本文化を29本フィルムで記録して残しました。家族の飲食のシーンをリュミエール兄弟も残していますが、稲畑の家族の飲食シーンも撮影しています。リュミエー兄弟はテーマの共通性を求めていたのかもしれない。この「明治の日本」29本については、リュミエール兄弟の世界事業の日本版と捉え直す必要があります。他の国の映画事業と比較して、どうなのか?と。

調査の過程で、2007年稲畑産業の社内報に直筆のノートについての記述が載っていたので、広報の方に「こんなものがありませんか?」とお尋ねしたところ、京都国立近代博物館に預けていることがわかり、今回の発見に繋がりました。資料を公開することが大事だと思って、稲畑産業さんにデジタル化してもらうと同時に、内容の精査が必要なので、ネイティブのフランス人に書き起こしをして貰い、フランス映画史研究の堀潤之・関西大学教授に翻訳を依頼。それらの成果は今年1月25日に稲畑産業のホームページで世界に向けて一気に公開されました。

書簡から、稲畑はフランスから2台持ち帰り、更に2台追加したことが読み取れ、ジレルが持ってきた1台を加えて5台使っていたこともわかりました。

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このことは、塚田嘉信が『日本映画史の研究ー活動写真渡来前後の事情』で書いた1897年5月9日のシネマトグラフ興行記録「5台説」を裏付けることになりました。レンタルは無料ですが、売り上げの5~6割を上納し、期限を5月までとする契約をしていましたが、「いろんな困難や不測の事態で2カ月遅れたので7月まで延長させてほしい」と書いていて、ライバルを意識しながらも興業を続ける意思があったことがわかります。実際は9月5日迄興行しました。追加発注があったことは、大阪朝日新聞明治30年3月28日付け記事とも一致します。

契約終了後も映画事業を続けようと周到に準備を進めていた稲畑ですが、赤字を続け乍らやるのは厳しいと判断。常設館がないので、地元の興行主とやり取りするのは彼にとって耐えがたかったのではないでしょうか。一攫千金を狙うより、西洋の文化を日本に紹介したかったので、この目標はある程度叶ったから、あとは横田永之助に任せようと考えたのでしょう。今回展示している横田自筆年表の1897(明治30)年の記述に「阪神京都二稲畑氏、東京ハ横田」の記述があり、この年、稲畑は一緒にフランスに留学した横田万寿之助と弟の永之助にシネマトグラフの興行を譲ります。翌年にも横田自筆年表に「活動写真機ヲ以テ地方巡業ス」の記述があり、稲畑から横田への接続が上手くいったことが読み取れます。15日の研究発表会では、横田の妻の盛大な葬儀の映像をご覧いただきますが、その葬儀に参列した稲畑の姿も映っています。この映像はフィルム発見後に国立映画アーカイブでデジタル化され、初公開となる貴重な機会です。

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会場からの熱心な質問がいくつも出ましたが、その中からいくつか。

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(この日は、J:COMチャンネルの取材があり、6月12日17時から「デイリーニュース」で放送されます)

・「興業の売り上げの5~6割というのは高いですねぇ。リュミエール兄弟が世界中に派遣した先の人々も、離れたフランスにいるリュミエール兄弟に馬鹿正直に上納したのでしょうか?」という私の問いに、「稲畑さんは、この手紙やノートを見てもまじめで几帳面な人柄だったとわかります。それにコンスタン・ジレルがそれを監視しているから」ということでした。なるほど、1通目の手紙に「日毎の入場者数は、ジレル氏が知らせていることと存じます」と書いてありますから、きっちり管理された中でのシネマトグラフ興行だったのでしょう。

 ・「稲畑勝太郎の子孫は?」の問いに「息子の勝男さんは、フィルム事業をやっていたら儲かっていたのかもしれないが、やらなかったのは、やはり文化事業ととらえていたから。自分が世話になったフランスの文化を日本の人々にも知って貰いたいと考えたのだろう」。

・「買いとっても上納金が必要だったのか?」の問いに「機材を買いとった後はリュミエール兄弟への上納金は要らなかった。購入に際して稲畑は払えたが、横田には払えなかったかもしれない。相当に赤字が出たのに、なぜ買い取ろうとしたのか?『いずれは横田に任すんだ』と考えて、続ける意思はあったと思う。『4台の機材の支払いに6000フランと諸々の付属品の手付金として1000フランは了承するが、フィルム代金1万フランは承諾できない。なぜなら大量のフィルムが摩耗していて利用に値せず、重複した情景もあり、しかもそれは日本の客が好むようなものではないからだ。6000フランなら買う」と厳しい表現をしています。『俺たちは親友じゃなかったのか!こんなものを送って来て』という稲畑からの問いかけに、リュミエール兄弟から返事があれば良いのですが」。当時は模造品が20社もあったそうです。

・「2月と3月の興行記録がありますが、他がないのはなぜか?日本以外のアジアにシネマトグラフが入っていない。世界的な比較はこれから。ロマンのある研究です。見つかった自筆ノート100頁のうち8頁がこの書簡ですが、残りの92頁は本業のモスリンや染めに関する記述で、これはこれで貴重な資料になると思います」と結んで発表を終えました。

DSC00144 (3)お決まりの記念撮影。私のメモはほとんど抜けていて頼りないですが、いろんな専門家が集って、それぞれ「勉強になった」と仰っていました。

DSC00147 (2)懇親会。主役の長谷さんが取材を受けておられるので、主役不在のまま「先ずは、乾杯!」。

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主役を迎えて、もう一度乾杯ということで、国立映画アーカイブの入江さんに一言頂戴しました。「いろんな研究者があたっても見付けられなかった資料が、若い長谷さんによって次々見付けられたことは、本当に凄いことで、仲間内では『ゴッド・ハンド』と呼んでいます」。

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実は入江さんは長谷さんに同行して横田家に行っておられます。その時長谷さんが、押し入れを開けて、『ありましたよ!ありましたよ‼』と手を叩いて喜んでおられました」とその時の様子を暴露。「内緒!」と、口に人差し指を当てて入江さんを見ながら、頭をかく長谷さん。この日一番の大慌て。「してやったり顔」の入江さんとの対比が面白くて。

「じゃ5月25日のものも?」とお聞きしたら、「あれは引き出しから」と長谷さん。「ゴッド・ハンド」はこの押しの強さからくる強運ですね。もちろんそれに至るまでの信頼関係構築が一番なのは言うまでもありません。

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そして、改めてみんなで「乾杯‼」。白血病で闘病中の水口薫さん(右端手前)がとっても楽しそうなお顔をされているのが良いですね。若い人が映画史の研究をして下さっていることを、とても喜んでおられます。

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以前からお引き合わせしたいと思っていたのが、この日実現しました。右は北波英幸さん。共に映像関係の仕事をされながら、大学院で研究をされています。北波さんには、昨年秋の渡辺泰展とトークイベントで大変お世話になりました。いずれ、北波さんにも、ここで研究成果の発表をしてもらえることを期待しています。

さぁ、今週末15日(土)は長谷さんの研究報告(後編)「新資料発見‼ 横田永之助の16㎜トーキーフィルム、35㎜サイレントフィルムについて」です。先述の新発見フィルムだけでなく、新たに見つかったフィルムもデジタル化したものでご覧に入れますので、どうぞご期待下さい‼ 皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。

【15日追記】

長谷さんが指導をうけている木下千花・京都大学大学院准教授から6月12日にお聞きになった話では、5月にイギリスで開催された国際映画学会で、長谷さんが発見された書簡を取りあげて発表した人がおられたそうです。「半年もたたないうちに、国際学会で取り上げられるほど貴重な発見だった。やって良かったという手応えを感じている」と長谷さん。本当に凄い発見ですから、次はぜひとも、リュミエール博物館や国際学会で発表して下さいね。大いに期待しています。

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