おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.22column

「『満州国』って、知っていますか?」の見学者さんから伺った、印象に残った話をいくつか

展示している満洲中央銀行「五圓紙幣」に「見覚えがある」という声を幾人もの人から聞きました。

IMG_20200822_0001満鉄(南満州鉄道株式会社)社員の腕章も同様で、「(親が、自分が)満鉄の社員だった」という人もおられて、懐かしそうに見入っておられます。腕章の裏には「大日本旅●(崗か?)関東軍司令部」の文字印が押してあります。

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昭和12年生まれの男性は、お孫さんに伴われて見に来てくださいました。この「奉天」の文字を指さして、「ここにおった」と教えて下さいました「哈爾浜(ハルピン)」はどこか?と尋ねられたので、一緒に古い地図から探しました。満鉄はJTBと提携して、日本からの観光客を誘致し、定期観光バスで名所旧跡戦績巡りなど様々なコースを用意し、特に哈爾浜の異国情緒が醸し出す雰囲気は人気があったそうです。この男性、「引き揚げ者」とおっしゃいましたから、さぞかし苦労されたことでしょうが、ただただ静かに懐かしそうにご覧頂いた様子が、かえって印象に残りました。

一昨日のお客様は哈爾浜に2年ほどおられたそうです。「哈爾浜は都会だった。纏足のおばあさんが、アヒルの卵を売っていたなぁ。満洲は広いから、次の駅まで2時間もかかるくらい広大だった。大連で通信の教育を受けて、哈爾浜電信省にいた。逃げるときに開拓団、義勇軍の人たち30~40人がついてきたが、最終的に残ったのは、4人だけ。あとは皆途中で亡くなった。昼はコーリャン畑で寝て、夜になったら歩く。腹が減って、子どもを殺し、嫁を殺し、最後は自分だけになって、それも死んで…」と目に焼き付いた光景を話して下さいました。

おじいさんが大連で有名な農園「南華園」をやっていて、2千坪ある庭で大勢の人が花見をしていたという恵まれた環境にあった昭和10年生まれの男性も来られました。お父さんは日本生まれですが、満洲で成功したお祖父さんに呼ばれて満洲に赴き、満鉄に勤めておられたそう。大連、奉天、哈爾浜に行き、小学3年生の時、大連で終戦を迎えたそうです。でも大連は空襲もなく、玉音放送も聴いていないので、ピンと来なかったとか。「ソ連軍が家に来て、電話をしていたコードを切って、受話器を持って行ったり、腕時計を盗って行ったりもした。家の中で鶏を飼っていたので卵は食べられた。日本人の向陽国民小学校は鉄筋で立派な校舎だったが、敗戦後は中国人の学校と交換になった。この学校にはなじめなかったので、やめた。ソ連の紙幣を使っていたような記憶がある。昭和23年引揚げの時は何もかも置いて、両親と2人の弟と一緒に家族5人で帰り、佐世保から母親の里の山口県に行った。新京より北の人は大変だったろう。農場では人夫(クーリー)が10人ほどいて、大切にしていたので、日本が戦争に負けて立場が逆転したときも、とても良くしてくれた。農園の南華園から大連にあった三越百貨店に、馬車に乗っておばあさんと買い物に行った。大連駅は東京駅と一緒で立派だった。大連市内からフカショー、ロコタン、星が浦へは市電で行けて、良く海水浴に行った」などと子どもの頃の懐かしい話を聞かせて下さいました。

丁度来館者にご覧頂いている1930年沖田 博さんが撮影・編集した、星が浦で海水浴を楽しむ子ども達の映像もあり、興味深そうにご覧頂きました。話をしていてびっくりしたのですが、おばあさんか、大ばあさんが、乃木希典大将の姪だそうです。お金持ちだったので、きっとパテベビーで撮影されたものもあったのではないかとお尋ねしたのですが、そうした映像関係は無かったそうです。趣味の領域ですから、お金持ちイコールと考えがちでしたが、そうとばかりも言えないですね。

大連には今まで10回ぐらい行ったそうです。南華園の跡や桜の木が今もあるそうです。大連神社は今、日本語学校になっているとか。「大連では、毎日白いご飯を食べていたが、日本に帰ったら、芋のツルみたいなものばかり食べていた」とおっしゃって、思い出は食べ物と密接に関係しているのだと思いました。

新聞を見て、満洲の展示を見にご夫婦でご来館いただいたご主人は、元は悉皆(しっかい)屋さん。展示よりも先に、型染め友禅をされていたミュージアムの建物をとても懐かしそうにご覧になっていました。知っているようで、実は余りよく知らなかった悉皆業。京友禅などのそれぞれの工程毎に、仕上がった製品を次の工程に届けたり、大阪の呉服屋さんに担いで売りに行ったりしたそうです。15歳で西陣のお召し屋さんに勤めて、問屋を回ったそうで、このあたりにかつて多くの着物に関する家内工業の家があったことをよくご存じでした。機場の話から、「杼(ひ・縦糸の間に横糸を通すのに使う道具)を作る人が現在の日本では只一人になってしまった」とお聞きして、今のうちに記録映像に残さなきゃと思いました(既に撮られているかも知れませんが)。ネットで検索したら、長谷川杼製作所3代目の長谷川淳一さんという国選定保存技術杼製作保持者で直ぐにヒットしました。「畳の生活が続く限り、着物はなくなりはしないとは思うが」とおっしゃりつつも、染料や道具なども含め、どんどん関連する伝統文化産業が先細りになっていくようで気がかりです。こうした話が聞けたのも、幸いなことでした。

731部隊に興味をお持ちの方もおられました。哈爾浜近郊にペスト菌や炭疽菌、感染症などの生物兵器研究で人体実験をしていたとされている研究所を置いていました。今年2月8日に京大で行われたシンポジウム「研究者が戦争に協力する時 731部隊の生体実験をめぐって」を聴講したときの資料と新聞切り抜きを展示しています。来館者にご覧頂いている第2次試験移民として満洲に渡った千振開拓団の記録映像の冒頭に「満蒙開拓の父」と呼ばれた東宮鐵男(とうみやかねお)の遺影が出てきます。1937年11月14日上海での戦闘で戦死した東宮の葬儀が、翌年3月に群馬の実家で盛大に営まれます。花輪寄贈者芳名簿に関東軍参謀長東条英機、関東軍参謀副長石原莞爾、満州国産業部次長岸信介、満洲炭鉱(株)理事長河本大作、731部隊長石井四郎(京都帝大医学部出身)らの名が連なっています。この満州移民を促す意図で作られたと思われる映像も、ぜひご覧頂きたいです。

いよいよ明日は、「満州国」をテーマにした茶話会です。幾人かの満洲引き揚げ者の方が体験談を語って下さいますし、読売新聞、京都新聞、京都民報にお知らせ記事を載せていただけたこともあり、問い合わせが相次いでいます。こんなに反響があると想定していなかったこともあり、うっかりと茶話会への予約か否か確認することを徹底できていず、青くなっています。ひょっとしたら予約なしでお越しになる方がおられるかもしれません。会場が狭いので、関係者も含め15人程度しか入れませんので、予約者優先でお入り頂こうと思っています。猛暑が続く中、誠に恐縮ですが、年配の方が多いので、そのことを心配しています。もしも、想定を越える人数の方がお越しになったら、心苦しいのですが、お断りしなければなりません。

 

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