おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.26column

貴重な体験談をお聞きした「満州国」をテーマにした茶話会の振り返りと感想文

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23日は地蔵盆でしたが、ミュージアムのある地域はコロナ禍で取り止めに。写真は近隣地域の様子。本当なら今年も地域貢献として子どもたちへの催しを計画していたのですが、それが無くなったこともあり、内容を変更して13時から、「満州」をテーマにした茶話会を開きました。

読売新聞、京都新聞、京都民報で紹介していただいたこともあり、場所を尋ねる電話を多く受け取りました。それが23日の催しへの問い合わせなのか、しっかり把握できていなかったこともあり、いったいどれくらいの人がお越しになるのか見通せず、3密になるのではないかと、随分心配しましたが、丁度良い具合で始まりました。

やっちゃん1当日の予定をお伝えし、茶話会にお声がけした人を最初にご紹介して、紙芝居『やっちゃんと3人のお母さん』を上演しました。本当はもっと枚数が多い作品なのですが、時間の都合から冒頭部分の紹介にとどめました。紙芝居めくりは、ボランティアの河田隆史さんにお願いしました。

満州で生まれたやっちゃんは5歳。開墾した土地では作物がたくさんできるようになっていました。でも、1945年8月9日朝、ソ連軍が侵攻してきたことにより背中に赤ん坊を背負ったお母さんとお姉ちゃんと一緒に逃げます。やっちゃんは爆撃により巻き上げられた土や石に埋もれてしまいます。真っ暗な中でひとりぼっちになったやっちゃんでしたが、辛うじて指が動きました。少しずつ土を動かして伸ばした指に、同じように逃げている別のお母さんが気付きます。

やっちゃん2「これ?なに?子どもの手?なんで?」といぶかるおばさん。漸く子どもが埋まっているのではないかと思ったので、土の中から引っ張り出しました。でも、このおばさんも逃げなければなりません。

「どうしよう」と困る様子を見ていた地元の女性が「私が、しっかりお預かりします」と申し出てくれます。二人の子どもと背中に赤ん坊を背負った日本人の女性は「では、お願いします」と言って、やっちゃんを託します。こうして、生みの母、土の中から救い出してくれた母、そして日本人の子を自分の子どもとして育ててくれた育ての母の3人のお母さんが、わずか5歳のやっちゃんの命を繋ぐのです。

日本人の子どもを育てるのは問題が多かろうというので、育ての母斉 鶯囀(サイオウテン)の夫の姜 文農(キャウブヌン)は、やっちゃんのことを八心(パーシン)と呼ぶことにします。こうして、本名小林弥助君は姜 八心として育ちます。夫婦には二人の娘がいましたが、仲良く遊んで育ち、姉たちは長じて小学校の先生になり、八心は養父を助けてお百姓の仕事をしています。

というところで終わりました。この物語は、1981年中国残留日本人孤児の帰国活動が始まった後、帰国することができた小林弥助さんの実話を元に荒木昭夫さんが作られました。公演では上演しませんでしたが、中国人の義母は警察服の男に捕らわれて牢屋に入れられ、「『私は日本のスパイです』って、白状しろ!」と拷問を受けます。後に子どもたちの活躍で養母の無罪が証明され釈放されますが、拷問で痛めつけられていたことから、間もなく39歳で亡くなります。その後養父も亡くなります。やっちゃんが39歳の時、中国残留日本人孤児の調査で、実の両親が日本にいることが分かり、初めて海を越えて来日します。

しかし、実父との再会の喜びも束の間、お父さんはやっちゃんが帰国することを拒んで姿を消しました。実父には実父の帰国を受け入れられない事情があったのです。やっちゃんのことを知ったいろんな人々が尽力して身元引受人になってくださったおかげで、やっちゃんと妻子3人が日本に永住帰国できました。

DSC03904 (2)紙芝居上演後、最初にお声がけした亀岡市の太田垣幾也さんにお話をして頂きました。太田垣さんは、この紙芝居を作るために尽力されたお一人であったことを、この時知りました。太田垣さんについては、今年1月21日付け京都新聞で紹介されていて、こちらで書いています。

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3密を避けての集い。同志社大学の学生さんが、とても熱心に耳を傾けて下さっているのが嬉しかったです。先日展示を見に来て下さり、この催しに再度来て下さった方が3人おられたことも喜びでした。そのうちのお一人は、展示している本を既に2冊注文して勉強を始めておられます。「何も『満州』について知らなかったから、もっと知りたいと思って」とお話し下さって、それこそ企画の目的通りで、大変に嬉しいです。写真左端の女性からは大連のお話等を聞かせて頂き、嬉しい出会いに感謝です。

この後、体験を聞かせて下さった亀岡市の黒田雅夫さんの場合は、信じられないような様々な幸運が重なって帰国することが出来ました。黒田さんについては、7月31日付け京都新聞に載っていた記事を読んで、是非体験談をお聞かせ下さいとお声かけしました。そのことは、こちらで書いています。

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中学校の先生をされているご子息は、学校で人権教育担当を言われたので、子どもの頃からお父さんの体験を聞いていることもあり、お父様に記憶を絵で描くことを提案されたそうです。7枚最初に描き、徐々に増えて、今400枚ほどの絵が溜まったそうです。その絵の中から40枚ほどを選んでお持ち下さいました。

ソ連軍の侵攻後、逃避行が続きましたが、1945年9月末、300㎞先の撫順の収容所に着いて、四万十の人たちと一緒に500人以上が収容されました。そのうち250人ほどが亡くなったそうです。写真の絵は、鉄兜を貰って、米を炊いている8歳の黒田さん。薪拾いも命がけ。冬は氷点下になる厳しい環境の中、お祖父様は雅夫さんから死に水を貰って、誕生日と同じ12月25日に亡くなられたそうです。お母様も死期が近いことを察し、4歳下の弟さんを中国人夫婦に養子に出すことを決意されました。

やっちゃんや、この弟さんのように中国人に預けられた子どもは約1万人とも言われています。黒田さんの話では、自分の子どもを売って帰った人も多く、中国人の子どもより日本人の子どもが高かったそうです。身元の領収書に父親の名前が書いてあったとも。

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 夜中に起こされ、お母さんが作った大根のヘタが入ったお粥を食べるように言われ、明日の朝に残しておけば良いのにと思いましたが、お母さんは自分は食べずに、頑なに食べるよう勧めたそうです。翌朝、シラミが雅夫さんの所へ来たので見ると、お母さんが冷たくなっていたそうです。夜中の食事がお母さんとの最後となりました。我が子が食べ物に困らないよう、祈りを込めて全身の力を振り絞って炊かれたのでしょうね。収容所では、シラミを媒介とする発疹チフスが蔓延し、多くの人が亡くなりました。

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お母さんの遺体を、廟嶺京都開拓団の村田団長が手伝って運んでくださいました。黒田さんは、葬るまで顔を一切見なかったそうです。「絶対自分は死にとうないと思った」と黒田さん。でも帰ってきたら、荷物が一切なくなっていました。収容所の人が盗って売られたのでしょう。ひとりぼっちになった黒田さんは、路上生活を選択。廟嶺京都開拓団については、昨年12月8日の安岡先生の講演で知り興味を持っていました。井手町多賀新田にその訓練所があったことも、その後分かりましたが、黒田さんの話によれば、1942~44年頃に、京都市内の織物や染め物業を営む約500名が参加して、農業移民の新天地として渡満しました。

1937年、綿糸統制令発布、1938年西陣で軍需製品の製造が始まる一方で、生糸、綿糸、人絹など配給統制規則が公布され、1940年7月6日奢侈品等製造販売制限規則が発布、翌日より施行されました。「七七禁令」と呼ばれ、これが西陣に大打撃を与えました。失業者が多かったことでしょう。活路を見いだそうと、希望を抱いて海を越えられたのに、こんな結末が待ち受けていると誰が想像したでしょう。DSC03922 (3)

 黒田さんは、収容所を出ることを決意。たくさんの死体が積み重なっている置き場は、誰も寄りつかないので、ここで食事を作っていたそうです。路上生活では、落ちているモノはお金がいらない、いうことを聞かなくても良いと体験してわかりました。そうこうしているうちに1946年3月、修道院のシスターに拾われ、孤児院に入ります。

黒田さんが座って居られる隣に、若い女性がこちらを見ているポスターを掲示しています。1930年藤森成吉の原作を鈴木重吉監督が撮った傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』(帝国キネマ)の主人公・すみ子を演じる高津慶子さんです。これでもか、これでもか、というほど不幸に見舞われ続け、最後に修道院に預けられますが、そこでも辛い仕打ちに遭って、最後に教会に火を放ちます(このフィルム復元に関わったことから、無声映画の救出を急がなければと思ったのが、私どもがこの活動を始めたきっかけになりました)。

まだ子どもだった黒田さんは、幸いにも「すみ子」のような目に遭うことなく、7月引き揚げ船に乗り、舞鶴に着きます。京都駅を経て長崎の戦災孤児施設へ送られますが、そのことを京都新聞の記者が記事にしました。それを読んだ叔父さんが長崎まで迎えに来て下さり、亀岡市のおばあさんの家に戻ることが出来ました。

 紙芝居のやっちゃんは、実の両親が生存していることが分かっても、身元引き請け人になって貰えなかったことを思うと、黒田さんは幸運だったなぁと思います。おばあさんは、黒田さんにとって第二の母。おじいさんに死に水をあげたことをとても喜んでくださったそうです。落ちついた暮らしが戻っても、PTSDで夜中に泣くことが随分あったそうです。収容所で一緒だった四万十の人が、思い出を冊子に書いてくださり、それが縁で64年ぶりに再会を果たされたことも。生きていればこそ、ですね。

 休憩を挟んで、企画展期間中毎日ご覧頂いている「満州」の映像をご覧頂きました。最初に三江省樺川県千振開拓団の映像。この開拓団は本当に上手くいっていた事例で、不況にあえぐ人々にとっては、心機一転、新しい土地で頑張ろうと思われた人も多かっただろうと想像できる移民促進を目標にしたプロパガンダ映像です。

黒田さんは「このような移民団を守ってくれる人々は全くいなかった。渡満すると徴兵されないし、食べ物にも困らないと言われて、農業も軍事も準備不足のまま渡り、道具も古く、家族を養うことも出来ないくらい過酷な状況に置かれた」と話されました。大連にあった沖田スタジオの沖田博さんが撮影された映像をご覧になって、12歳まで大連に住んでおられたことがある女性は、大変懐かしそうにご覧になっていました。たわわに実るリンゴの映像に「リンゴやサクランボは日本人が植えたことを向こうの人は皆知っている」と教えて下さり、「夏家河子の思い出」の映像に「ここには別荘があって、よく海水浴に行った。海岸から旅順と大連が見渡せた。冬になるとこの海が凍り、刃が錆びると言われたけれど、スケートをして遊んだ」。

「満州牧場」の映像に黒田さんは「これは日本から持っていった牛だ。朝鮮の牛は薄い黄色をしていた。ヒューマというモンゴルの馬もいた」。先の女性は「ロシア人も(日本の)牛を飼っていた」ともおっしゃり「農業や酪農の機械化が進んでいるように思う」という私に、「大連にはヨーロッパの人が多く住んでいて、その影響かもしれない。ドイツ人はバターを作っていたし、ロシア人のパン屋さんも多かった。私は毎朝配達される瓶詰め牛乳を飲んでいた」と少女の頃を思い出してお話し下さいました。豊かな少女時代を大連で過ごしていたこの方も、藁人形で訓練をしたし、軍人勅語も覚えたそうですが、明治2年生まれのおばあさん(田辺別当の子孫)は「そんなもの覚えなくてもよい」と強気だったとか。いつの時代も肝の据わった女性がいるものです。

敗戦時、満州には155万人の日本人がいたそうです。日本政府はそのまま満洲に置いておきたかったが、みんな棄民だと怒っていたそうです。この女性も1946年に日本に帰ってこられましたが、「食べる米すらなく、初めて芋のツルを食べた」と首をすくめてお話し下さいました。

今日、お越しの女性は、お祖父様が満鉄の技術者でお母様が「『大連にはアカシアの花が咲いてね』と話していたのに、亡くなってしまい、もう話が聞けないから、大連がどういう所か知りたいと思って」と来館して下さいました。満鉄も映る大連の映像を見ていましたら、思った以上に立派な大都会で、製鉄業などの機械化が進んでいることにも驚きました。国内よりも投資が進んでいたのでしょう。これまで大連で子どもの頃を過ごしていたというお客様のお話は、総じて、とても豊かだったことを想像させます。それが敗戦により全てを失って帰国したとき、そのギャップの大きさにさぞかし戸惑われたことだろうと思います。

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所用で途中でお帰りになった方もございましたが、最後に23日の集合写真を。「満州」に対し、関心をお持ちの方が思った以上にたくさんおられることが分かりました。30日まで開催していますが、イベントを通して出会った縁を活かして、今後も継続して「映像を通して平和を考えるシリーズ」を展開していこうと思っています。

【8月27日 追記】

上掲文書でも触れた同志社大学の学生さんから、感想文が届きましたので、早速紹介します。

………

資料や映像だけでなく、満州国で暮らしたことのある方々のお話を直接伺えたので大変勉強になりました。また現代の感覚からはなかなか想像がつかない満州国という観点から平和について考えることが出来ました。

私は満州国を建設し統治しようとした当時の政府関係者や関東軍の動きについて大学で学んだことがありましたが、今回お話を聞いて得た印象は大学での勉強で得た学びとは全く別物でした。黒田様が死体の山の前で鉄兜を使って炊飯されるお話やお母様の死についての話をされたとき、黒田様の目に訴えかけてくるものがあったことが強く自分の心に残りました。

本で勉強したり、映像をみたり大学で学んだりするだけでは決して得られない感覚でした。こういう感覚を得ていくことが戦争について考え繰り返さないために自分に出来ることの一つだと自覚させられたと同時に、これからの時代を生きていく一人の人間として悲劇を伝え回避する責任を痛感しました。 

                     同志社大学法学部政治学科四回生 堀佑介…………

                     

 

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