おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.08.29column

いよいよ明日最終日、「『満州国』って、知っていますか?」。昨日、今日来館いただいた方との印象に残ったお話から。

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7月29日から始めた資料展「『満州国』って、知っていますか?」は、いよいよ明日最終日です。思っていた以上に「満州」に関心を寄せて下さる人が大勢おられるのだと日々実感しています。

そのような中から、昨日、今日お越しのお客様とおしゃべりをしていて、印象に残った話をいくつか紹介します。

DSC03948 (2)7月25日付け京都新聞に大きく掲載された北本都紀子さんが訪ねて来て下さいました。

IMG_20200829_0001新聞を読んで、直ぐに連絡を差し上げて、指さしておられる貴重な資料3冊をお貸しくださいました。『南満無宿放浪記』はテーブル右端の1冊で、亡きお父様が、1997年1月に綴られた文集です。後に京都市立第一工業学校(現在の京都工学院高校)の同窓でつくる「みどり会」で写真集とともに15部製本されたうちの1セットと共にお貸し頂きました。文集の方はコピーしてファイルに入れ、皆さんにご覧いただけるようにしています。23日の茶話会に参加されるかなぁ、と想像していたのですが、お仕事だったため、この日のご来館となりました。

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記事ではトウモロコシ畑が出てきますが、これは満州時代のコーリャン畑の様子。2メートルを超す高さの穀物で、茎はよく乾かして、燃料や建材、敷物の材料として使われました。1945年8月9日のソ連軍侵攻で日本の人々は過酷な逃避行が始まりますが、よく「果てしなく広がるコーリャン畑の中で、昼は休んで、暗くなると星を頼りに南へと逃げた」と聞きました。コーリャンの名称は知っていましたが、具体的にどういう穀物か知らず、イメージがもうひとつ出来ないでいました。でも映像で見ると、すっかり姿を隠すことができることが納得できました。このコーリャン畑の中を女、子ども、年寄りが、ひたすら逃げたのです。満州はとにもかくにも広いです。

体験者の方からお聞きするのは、この8月9日以降の困難を極めた逃避行のことですが、1944年10月、小学校1年生の時に帰ってこられた83歳女性の話も興味深かったです。四国の島に住んでおられる母方の祖父母から「日本は大変な状況になっていて、満州もそのうち酷いことになるから、今のうちに帰ってきなさい」と言われて、軍隊におられるお父様を残して、お母様と妹、生まれたばかりの末の妹と3人で戻られたそうです。戦後の混乱期では、裕福だった人もそうでない人も着の身着のままで命からがら船に乗って帰って来られましたが、その前年帰国だったので、荷物は別に発送。船が沈没したときのためにリュックサックと浮き袋姿で乗船したそうです。布をたすけがけしていた時代に、ランドセルを持って帰ってきたから、皆、どうして買えたかという目で見ていたそうです。

2020年8月28日、満州展

宝東在満国民学校1年の時、帰国する女性に、学校のみんなと教職員の先生方が寄せ書き(緋毛氈の上に置いた1枚)して、プレゼントしてくださったそうです。「カラダニキオツケテ サヤウナラ」と絵を添えて描いて別れの言葉をそれぞれが書いています。1年6人、2年1人、4年1人だったそうです。毎日大切に持ち歩き、亡くなったら棺に入れて欲しいとご家族に頼んでいるとか。貴重なものを見せていただきました。帰国後、これらの寄せ書きを書いてくれた人々と誰一人連絡をとれていないそうです。

お父様は「いざというときに軍隊は開拓団の人々を守らなければいけないのに、それを放置して帰った」事実が辛くて、帰国後自衛隊ができ、入隊を勧められても拒否されたそうです。お父様だけでなく、ご家族も自分たちだけが無事に帰ってきたみたいで、それが負い目で、満州時代のことは一切口にしなかったそうです。帰国後、今治が爆撃されているのは見えましたが、この方が帰った島は爆撃に遭うことなかったので、こうして貴重な話を聞くことができました。宝東在満国民学校の北の方に、毎日ご覧頂いている三江省樺川県千振などの入植地があったようですが、官舎に住んでいて「満人がいるから、遠いところへ行くな」と言われていたので、どれだけ離れていたかは分からないけれど、開拓団の人とは接しなかったそうです。23日に廟嶺京都開拓団として満州に行かれた黒田さんの話をお聞きしたとき、千振の映像をご覧になって「自分たちを守ってくれる武装した人は全くいなかった」とおっしゃられたのと合致します。

今朝、北本さんから8月15日頃に掲載された京都新聞のスクラップを送って貰いました。お友達の亡くなったお母様が綴られた自分史について載っていました。京都女子専門学校(現在の京都女子大)の寮にいた1945年1月16日夜に遭遇した馬町空襲(京都市東山区)のこと、その後伏見区の連隊区司令部に学徒動員され、兵籍簿にコヨリが挟んである人の名前を赤紙(召集令状)に書く作業をしていたことなどが書いてあったそうです。亡くなった私の父も赤紙を受け取って戦地に行きましたが、若い女子学生さんが、こうした作業をさせられていたのだと初めて知りました。

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これは、長野県の方から送って頂いた1938年3月8日付けの新聞記事。大日向村の集団移民の話は「満州分村」のモデルとして、小説、前進座の演劇、映画や紙芝居などで盛んに喧伝されました。

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「満州展」を見ようと、次々お越し下さったので、丁度良い機会だと思い、立命館大学国際平和ミュージアムから借用して、展示している紙芝居『大日向村』を2回上演しました。23日の催しで披露する予定でしたが、内容を変更したので、披露するタイミングを逸していたのを勿体なく思ったのです。

DSC03968 (3)ヘタな語りで恐縮でしたが、皆さん熱心に耳を傾けて下さいました。村を挙げて渡満することを決意した村の人々の過酷だった背景がよく分かりました。

中に、とてもいろんなことをご存じの方が居られましたので、お尋ねすると、日本中国友好協会京都府連合会の方でした。長く、残留孤児として帰国された方々の生活を支援しておられるそうです。教わることがとても多いので、いずれ「映像を通して平和を考えるシリーズ」Part4として、この方や支援を受けておられる方のお話しを聞く会を実現したいと思っています。

先日8月1日の振り返りを書いていて、ジャーナリストの本多勝一さんがどういう位置付けなのか、よく分からなかったのでそのこともお聞きしましたら、日本人は、本多さんが著述する1970年頃以前、戦争責任を考えて来なかったそうで、日本人が中国人に対して行ったことを、中国に入って調べる人はおられず、日本人が犯した罪を謝罪しなければならないということを、明らかにしてきた人なのだそうです。

他にも京都で組織した「記憶を継承する会」の活動で従軍慰安婦の調査をしている人や、731部隊について資料を届けて下さった方もおられました。子どもの頃八百屋の経営が出来なくなり、一家揃って満州へ行こうと思っていたところ、お得意先の大学の先生から「絶対満州へ行きなさんな!」とキツく止められたという思い出を聞かせて下さった85歳の男性も。「その先生のおかげで今がある。もし満州へ行っていたら満州の土になっていただろう」と語り、前述の「三江省樺川県千振」の映像を見ながら、「こういう映像を中国の人が見たら、どう思うだろう?」とポツリと仰いました。

残り一日ですが、お客様からいろんなお話が聞けることを楽しみにしています。この催しを企画して本当に良かったと思っています。

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