おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.09.15column

日本映画始まりのときを巡って

一昨日「日本映画原点の地・立誠」委員長の諸井誠一さんが来館され、出版されたばかりの『映画はここから始まった』(税込1100円)について教えて貰いました。3年の歳月を費やしての労作‼ このことをSNSで紹介したら、早速入手方法を尋ねて下さる方も。関心を持って下さることをとても嬉しく思います。

さて、こちらは2016年10月15日に出版された武部好伸さんの本。当館でも出版を記念して賑やかにトークイベントをしました。何度も手にとって読んだので表紙が傷んでいますけど、お目こぼしを。この武部さんが今年11月末か12月初旬に4年の歳月を費やした小説を出版されます。これまでエッセイ、ノンフィクション、紀行文と22冊出版されていますが、23冊目は小説。晴れて小説家デビュー㊗️㊗️㊗️ どんなペンネームかも含めて、今からとても楽しみにしています。

その武部さんに、7月終わりに文化資源学会会員の藤元直樹さんから教えてもらった「国際映画新聞」第186号(1936〈昭和11〉年11月20日発行)に掲載された荒木和一さん(当時の肩書きは、加奈陀サン生命保険会社関西支部長)の映画界回顧「日本最初の活動写真」を転送しました。小説の話を聞いてからでしたので、ひょっとしたら「遅かりし由良之助」だったかもしれず、そのことを私的には後悔しています。

もう御一方、映画『拝啓、稲畑勝太郎様』を撮ろうと準備されている方がおられますし、あるいは他にも、日本映画の始まりについて調べている人がおられるかもしれませんので、その方達の参考に間に合えばと願って、その荒木和一さんが書かれた文章を載せます。本当は藤元さんに「資料紹介」として発表して頂きたかったのですけど。。。

 

当初の様子がとても詳しく書かれています。最初の公開前後が京・阪・神のどちらが早いかと注目を集めているわけですが、関西から始まったということで。日露戦争のフィルムについて、「実はこの写真てのがニューヨークで撮影したものでして」とあり驚いたのですが、連れ合いに聞くと「ニューヨークだけでなく、フランスでも撮影されていて。日本でも撮ったけれど残っていないだけだろう」と申しています。

私的には最後の段落に胸が痛みます。「私がこれほど生命を打ち込んだ活動写真と何故に決別したか、それは実に悲痛な一語に尽きるのです。それは興行界は明朗ではない。興行関係の人々には実に手痛い目にあわされております」。何となく事情が想像できて、溜息をつきながら読みました。

7月に小冊子6『京都の映画館文化』を出しました。執筆者は「興行に興味のなかった稲畑は」と書かれましたが、きっとお世話になったフランスの先進文化を日本の皆さんにも紹介しようとシネマトグラフを日本に持ち込んだであろう稲畑さんも、同じような思いを味わったのではないかと私には思えてならず、「興行界の因習に馴染めず興味を失った稲畑は」に改めさせていただきました。

それから、今年4月5日に大阪のシネマパブ「ワイルドパンチ」で、荒木和一さんの曾孫にあたる井上聡一さんが所有されているフィルムの上映会が行われました。その時の様子を武部さんはご自身のブログで書いておられます。「国際映画新聞」掲載の4年前、同じ役職にあった1932年、60歳の荒木和一さんが、太平洋貿易会議に参加するため、日本郵船の龍田丸でハワイホノルルを経由してロサンゼルスへ渡航された時の様子などが映っていたそうです。他におそらく荒木和一さんが三男夫婦とそのお子さんを撮ったホームムービーなども。荒木さんご本人は映っていなかったそうですが、撮影者としての眼差しがうかがえて、それはそれで貴重な映像だと思います。

最後にご案内をひとつ! 諸井さんの情報では、9月25日21時、MBS毎日放送TV「世界ふしぎ発見!」番組内で、立誠小学校が取り上げられるそうです。どのように紹介されるのか楽しみですね。皆様もぜひご覧下さい‼

【後日追記】

ブログを読んでくださった武部さんから「国際映画新聞」掲載荒木さんの文章について「所々事実誤認がありますね」とメールが届いたので、どのあたりを指しておられるのか尋ねました。22頁上段の「そして其の翌年即ち明治30年1月8日、新町演舞場でこれを公開しましたが」とありますが、公開はされていないそうです。

その下の段「『プロジェクティング・キネトスコープ』と命名して明治31年(1898年)に売出しました。私は早速これを輸入しましたが、これは販売の目的で輸入しましたので興行は別段やりませんでした」の部分については、元兵庫県警の警官で映画史研究家の水野一二三(かずふみ)氏が荒木さんに取材して書いた「関西映画落穂集」(『映画資料集第11集』、1963年、凡々社)によれば、「その年の5月、私がプロジェクティング・キネトスコープを輸入して、5月6日から稲荷の彦六座で興行したとき、矢張り布袋軒に説明させたのですが」とあり、前後の文章から1897(明治30)年のことを指し、購入が1年早く、興行もしていたようです。

筆まめな人なら、文章を書くに際し、日記などを見ながらより正確に書かれるのでしょうけど、必ずしもそうではないので、鵜呑みにしてしまうのも危険ですね。

いつも親切に教えて下さる日本映画史家の本地陽彦先生もブログをお読み下さって、2つの画像を「参考になれば」と送ってくださいました。

               (禁・無断転載)

これは荒木和一さんが関西支部長として勤めていた「加奈陀サン生命保険会社」の営業案内の表紙で、昭和10年頃のものだそうです。荒木さんは「国際映画新聞」の記事に肩書きを「カナダ」とカタカナで表記されていますが、正式には漢字表記でした。

               (禁・無断転載)

また、荒木さんは語学の才能に長けていて、代表的な著書に『英和俗語活法』があります。これは1896(明治29)年3月の第2版だそうです。武部さんに聞いたら初版発行日は同年1月3日。何部発行されたのかは存じませんが、僅か2ヶ月後に重版とは凄く売れたものです。

先ほどの水野氏の文章にも荒木さんについて「実に明治30年代における大阪地方での知識人であり、その著書『英和俗語話法』(全5巻、別に袖珍版あり)は、明治3、40年代の米語研究書として、丸善書店より売出され当時のベストセラーとなった」とあります。丁度、日本に活動写真が入ってくる頃にあたりますね。

恥ずかしながら「袖珍本(しゅうちんぼん)」という言葉を初めて知りました。「袖の中に入れて持ち歩きできるほどの小さい本」のことだそうです。高校時代にE.S.S.クラブに入っていた私は、制服のポケットに赤尾好夫さん編集赤表紙の「豆単(まめたん)」(正確には『英語基本単語熟語集』)を入れて持ち歩き、毎日部活で行われる単語テストに備えて暗記していたものです。懐かしい「豆単」のルーツは荒木さんが出された袖珍本だったのですね💖

 

 

 

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