おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2016.06.21column

本『京都繁華街の映画看板 “タケマツ画房の仕事”』をいただきました

19日に永岡さん手土産「茣蓙候」をいただいたもう一人が、3日に初めて来館いただいた井上優さん。その時の様子は「バラエティに富んだお客様」として書きました。

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この日は、前回約束してくださった本『京都繁華街の映画看板 “タケマツ画房の仕事”』を届けてくださいました。この本のもとになったのは、竹田耕作さんが撮りためておられた看板の写真やポスターなどの写真を井上さんがデータ化しておられたことが役立ったようです。事情がわからずに「看板が全く残っていないことがもったいないですね」と言ったところ、「現場では次々仕事をこなすので、邪魔になるから残さない」とおっしゃったのですが、この本を1ページ、2ページと繰るだけで「残せっこない」と納得。とてつもなくでかくて、切り出しや、パーツを動かす工夫があったり、電飾を施したりと様々なアイデアに満ちています。しかもそれぞれの劇場のサイズに合わせているので使いまわしも難しく、1週間上映が終われば廃棄になるのもやむを得ませんね。1週間だけの興業に資料だけを手掛かりに、客に見たいと思わせる看板を作るのは面白みもあるでしょうが、大変ですね。

井上さんの親方竹田耕清さん(本名猪八郎)さんともう一人の劇場看板絵師井上秀雄さんがそれぞれ弟子を率いて、京都の新京極や河原町界隈といった繁華街にある劇場の看板を手掛けていたそうです。戦前から互いに交流し、やがて耕清さんにとっては義理の兄となった井上秀雄さんが亡くなったあと、井上さんの一番弟子だった絵の上手な松本利一さんと字の上手な耕清さんがコンビを組んで、昭和23(1948)年12月9日に京都初の劇場看板専門工房「タケマツ画房」を発足。耕清さんの長男・耕作さんも一緒に働き始めます。耕作さんは絵が上手でした。

終戦後、映画は大衆娯楽の頂点になり、昭和26(1951)年サンフランシスコ講和条約調印と同時に洋画輸入が自由化されてからは益々大忙しの毎日。昭和30(1955)年に入ると映画は史上最大の盛況を見せ、昭和33(1958)年には11億3千万人の劇場動員数を記録、全国には7457館もの映画館があったといいます。全盛期には、新京極界隈に33館もあったといいますから、忙しさは如何ばかりかと。

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本に1942年にアメリカで作られた「カサブランカ」のカラー看板が載っていました。2代目の耕作さんが描いたもので、「瀬戸内少年野球団青春篇」(1987年)に使用されたそうです。右は、先日私がフリーマーケットで購入した京都の映画館で配られていたチラシをファイルした中にあった「カサブランカ」。「カサブランカ」は、日本では戦後の1946年6月20日に公開されていますので、松竹座で6月上映の予告を書いたものかもしれません。

初代竹田耕清さんは、若いころ香川県の丸亀から出てきて大阪で劇場看板の仕事をしているときに、松竹の系列で南座の経営に関わっていた千日土地建物株式会社の白井信太郎さんに見い出されます。南座の「まねき看板」を任された耕清さんは、師走の風物詩として知られる顔見世興行のまねきを毎年書き続けると同時に、松竹系劇場の看板も描いていたのですから、これらのチラシで紹介されている映画の看板も描いておられたのでしょう。耕清さんは、昭和51(1976)年5月に75歳で亡くなります。

跡を継いだ耕作さんは、カメラを購入して昭和40年代からの看板などを撮影されました。「終わったら、次の仕事に着手」するのが当然のような世界で、「記録を残しておこう」と思われたおかげで、往時のにぎやかさを垣間見ることができます。しかしながら、やがて映画は斜陽の時代を迎えて劇場の数が減少していき、看板の仕事も減っていきます。ついに平成19(2007)年6月「タケマツ画房」は解散し、60年近く看板という媒体で映画を楽しませてきた歴史に幕を下ろしました。

映画100年を記念して始まった京都映画祭の第1回目で、耕作さんは京都映画功労賞を受賞されています。井上優さんと出会ったことで、こうした映画を裏で支えた人々の活躍を知ることができました。今、井上さんは、南座のまねきを書く4代目として活躍されています。嬉しいことに、そのことに関連して後日改めて書く機会があると思います。素晴らしい出会いが続いた19日は、外は雨でも、心の中は晴れ。とっても幸せな一日となりました。

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