おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.03.15column

日本映画発祥の地を巡る論争について

今年は日本で映画が興行されてから120年の記念の年ということもあり、今1冊の本が話題を集めています。元新聞記者でエッセイストの武部好伸さんが著した『大阪「映画」事始め』。当館でも昨年12月4日には武部さんをお招きして「映画の渡来、120年目の真相~日本の映画発祥地は京都ではなく、大阪だった~!?」を開催し、翌1月28日には読売新聞の後輩記者・森恭彦さんもお招きして「反論!…日本『映画』事始め」を開催しました。

 武部さんの講演会は各地で開催され、新聞・雑誌・ラジオでも取り上げられ、3月7日(火)には朝日放送の情報番組『キャスト』でも紹介されていました。番組内で特集「『映画発祥地』で大論争!京都か神戸か大阪か?」が放送されました。ちなみに新聞の番組欄では「京都?大阪?それとも神戸?」の順に。三都の名称掲載順も微妙ですね。前述のように2回にわたって当館で講演会を開催したこともあり、興味深く拝見しました。

 番組内で最初に登場したのは神戸映画資料館の田中範子支配人、次に京都文化博物館の森脇清隆学芸員、最後に大阪から武部さんが登場して、それぞれの見解を紹介。互いに一歩も譲らず、「いち早く映画を公開しようと競った京都、神戸、大阪。関西から映画文化が発信されたということに間違いはありません」のナレーションで番組は締め括られました。

 ただ傍観者として三都の熱い論争を見ているだけでなく、この際、「自分の見解も示さねば」ということで連れ合いが書きましたので、駄文長文ですが以下に掲載します。

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まず、映画史的な観点から述べることにします。そもそも世界映画史で「映画の始まり」というと、1895年12月28日、パリ・キャプシーヌ街グランカフェ地下サロン・インディアンでのシネマトグラフの公開時を指していて、一般公開の成功を「映画の原点」としています。「世界映画史」をまとめたフランス人のジョルジュ・サドールの見解によります。

その根拠となるのが、シネマトグラフという機械の発明ではなく、スクリーンに映された映像にあります。それが如何に衝撃的な事件であったか、迫りくる機関車の映像を見て、逃げようとした人もいたという話題もあり、その衝撃の大きさが紹介されました。ここから映像の歴史、マスメディアの歴史、マス・コミュニケーションが始まりました。興行としての映画の始まりでもあります。

この見解に基づけば、大阪の南地演舞場(現・TOHOシネマズなんば)が日本映画の始まりという事になります。また、映画が日本にもたらされたのは船舶であったため、「映画が初めて渡来した」という観点に立てば神戸港になり、エジソンの「キネトスコープ」(覗き穴から見る映写装置)が公開された神戸の神港倶楽部となります。

問題は、120年前の1897年1月下旬から2月上旬にかけて試写実験をした京都を日本映画の発祥地にするか、否かです。そういう私も、日本映画100年の年に始まった「京都映画祭」で、京都市民向けに製作した映画に関わりました。タイトルは『日本映画のふるさと―京都―日本映画100年の歩み』(山内鉄也監督、35㎜、20分)。私はそのシナリオを担当したこともあり、今回の映画発祥地を巡っての論争に自分の見解も示す必要があると考えました。

ナレーションでは「…古いものと新しいものが同居する町、京都。この調和の中に、1200年の都、京都は息づいてきた。この古の京都に、新しいテクノロジーである映画が誕生して100年になる。日本文化の多くが、ここ京都に始まったように、映画もまた京都から始まった…」で始まり、『地獄門』の場面が続きます。長谷川一夫と京マチ子の映像のあと、当時の桝本頼兼・京都市長が書かれた「京都」の文字に被るように「日本映画のふるさと―京都―日本映画100年の歩み」のメインタイトルが映し出され、鴨川の映像が続きます。

さらに「…フランスのリュミエール兄弟によって発明された映画、シネマトグラフを京都に輸入したのは稲畑勝太郎であった。稲畑は15歳で京都府派遣の留学生としてフランスに渡り、リオンの工業学校に学んだ。同級にリュミエールの兄、オーガストがいた。その偶然の交友から、のちにシネマトグラフを京都に持ち帰った。稲畑から、一切の興行権を譲り受けた横田永之助は…」と続きます。

私は、当初から映画興行は大阪で始まったと知っており、世界映画史的見地からも、日本の映画の始まりは大阪であると大学で話しています。しかし、映画製作の視点に立ち、文化、芸術、産業、とりわけ芸術文化に重点を置くなら、京都が日本映画の発祥地にすることには何の問題もなく、間違いではないと考えていました。だから、映画『日本映画のふるさと―京都―日本映画100年の歩み』では、元・立誠小学校について一言も触れていません。繰り返しになりますが、試写実験は映画文化の始まりではないという見解と、カメラテストや試写実験まで入れると、映画史にとどまらず、本質を見誤ると考えたからです。

そもそも今回の熱い論争は、2010年6月に京都市が元・立誠小学校跡地にたてた駒札に「日本映画発祥の地」と書かれていることに対して、事実関係を徹底的に調べた武部さんが、京都での試写実験よりも早く大阪難波の福岡鉄工所でなされたことを示す資料を発見し、そのことを指摘されたことに始まります。いずれの分野でも新たな事実が発見されれば更新されるのが常です。その意味では、事実に反し、間違った記述は改める必要があると考えます。「京都映画発祥の地」なら問題はないし、このような試写実験を重ね、映画文化、映画産業として発展していったとすれば、問題はないと考えます。1月28日森恭彦さんの発表も「京都の歴史と文化としての観点から、映画が京都で育ったことは間違いなく、また稲畑について来日したコンスタン・ジレルが、京都のまちを撮影し、特に稲畑家の家族を記録した点で、映画製作の始まりは京都である」と主張されました。試写実験をいうのではなく、こうした観点からの表現に改めることを提案します。

武部さんは、身についた新聞記者としての立場から、事実関係を正確に把握することに務められました。試写実験ばかりがクローズアップされていますが、稲畑勝太郎と同時期に、アメリカからエジソンの「ヴァイタスコープ」を輸入した大阪の荒木和一氏に光を当て、多大な功績があった彼を再評価することに尽力されたことにも注目して欲しいと思います。

因みに、アメリカでは、必ずトマス・アルヴァ・エジソンとジョージ・イーストマンの二人が並ぶ写真を出して映画史の始まりとしています。映画製作、映画産業としては、この二人に始まったことは間違いありません。19世紀の産業革命の中で、自動車や鉄道、汽船、飛行機など多くのものが誕生し、電話や時計、紡績、映画も同様に誕生しました。今日の多くのテクノロジーは産業革命の所産なのです。

産業革命の時代に多くの人々が様々な映像や映画に関する装置を発明したので、これが決定版「原点」とは言い辛い点も多々あります。例えば▼何台かの写真機を並べ、連続して撮影したイギリス人のエドワード・マイブリッジ。▼1台のカメラにシャッターをつけ連続的に撮影したフランス人のエチェンヌ・ジュール・マレー。▼アニメーション映画はフランスのシャルル・エミール・レイノーが創始者です。▼何よりもアメリカの発明王エジソンがいます。▼そのエジソンより早くフランス人のオーギュスタン・ル・プランスという人が映画を発明し、発表するためにアメリカへ渡りますが、途中で消息を絶っています。そのすぐ後エジソンがキネトスコープを発表したことで、『エジソンに消された男』(クリストファー・ローレンス著)として書物にもなっています。▼イギリスのロバート・W・ポールやウイリアム・フリーズ・グリーンもロール・フィルムを使った映画装置を発明し公開しています。▼ドイツでは、マックスとエミール・スクラダノフスキー兄弟の「ビオスコープ」を発表しています。▼リュミエール兄弟も、パリの博覧会でエジソンのキネトグラフ(カメラ)とキネトスコープ(映写装置)を見て、シネマトグラフを発明したとされています。…等々列挙しましたが、これらは映画前史に位置付けられています。

リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」を語る際も、1号機の特許申請をした2月ではなく、写真学会で発表した7月でもなく、一般公開した12月を映画の原点としていることから、このマス・メディアの始まりとしての見解は、その後も多くの研究者から支持を得ることになりました。以降、映画史はスクリーンに映った作品を語り、映画監督たちを語るようになります。これは、マスメディアとしての映画の歴史という観点に立っています。

先に挙げたサドールは、映画前史として発明された映画装置をそこで終わらせましたが、映画の機械としての歴史はそれ以降も続きます。改良に改良を重ね、エジソンはその特許を管理する会社ザ・トラストを組織し、世界の映画を牛耳ります。当時は特許の裁判が続き、エジソンとアメリカン・バイオグラフ社との争いもありました。実際にキネトグラフ、キネトスコープを作り35㎜幅のフィルムを発注したのは、エジソンではなく、エジソン研究所のスコットランド人(母親はフランス人)のウイリアム・K・L・ディクソンでした。また、35㎜ロール・フィルムもイーストマンではなく、ハンニバル・ゴールドウインという僧侶が発明したもので、彼は裁判のため、すべて権利を売り、勝った時には別の権利者になっていたという落ちもあります。

一方のリュミエールは、エジソンの特許に抵触するため、新たな改造品を作ることができず、映画史からも消えていきます。しかし、最も重要な点は、稲畑がシネマトグラフを持ち帰った時、リュミエール兄弟の方針で、コンスタン・ジレルという技師を同伴させたことです。ジレルは、「家族の食事」(稲畑家の家族)や明治の日本を撮影しました。リュミエールのカメラマン派遣は世界各地に及び、19世紀末の映像を撮り続けました。リュミエール兄弟の映画史的な貢献度は、シネマトグラフの発明よりも、この映像記録の方が大きく、これらはすべてフランス政府によって国宝扱いで保存されています。

ともあれ、映画は日本人が発明したものでなく、カメラ、映写機、映像も全て欧米からもたらされたものです。他の映画関連機材類も日本製はたいへん少ないのです。映画作品も初期のものはほとんど保存されずにきました。映画は「夢を売る商売」という側面もあり、これまで語られた中には、伝説や誇張も多く含まれています。少ない映像資料や文献が頼りで、その中から歴史が綴られ、また伝えられてきたことを思えば、今回の日本映画発祥地を巡る論争は重要な意味があります。武部さんが一石を投じたことで、今後さらに研究が深まれば、駒札に書かれたことは事実ではなく、伝説になってしまいます。後世への影響を考えると、映画に関する資料が少ないだけに、駒札の文言は正確であるべきです。明らかになった事実に基づいて、文言を修正すべきではないかと思う次第です。

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【後日追記】

前回の見解を掲載した後で、書き忘れていたことがあるので追記します。それは、京都の稲畑がなぜ大阪で初興行をしたか?という点です。

京都は公家の町、大阪は商業の町として栄えてきました。 京都は様々な産業を生み出しましたが、昔から興行は難しいという発想があったからではないでしょうか? これはリュミエールが、リヨンでなくパリで初公開したこととも共通しています。 稲畑は、京都と大阪の町の性格をよく知っていて、敢えて大阪で興行したと考えます。

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【後日追記―その2】

今朝3月22日付けの京都新聞記事を読んで、森脇清隆・京都文化博物館映像情報室長の言葉に変化があることに気が付きましたので、早速ご紹介します。

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記事の上段最後部分、「京都初の映画上映があった」となっているのにご注目ください。

2月3日元・立誠小であった「映画伝来120年新春シネマ会」で、森脇さんは武部さんの本『大阪「映画」事始め』を手に取り紹介しながら、「エジソンのヴァイタスコープでの商売は負けたのに、恥の話を何で今さらするの」と話し、「(元・立誠小前に建つ「日本映画発祥の地」駒札文章の)監修の責任者として、駒札の今の文章は正しい」と断言されたのと比べれば、大きな変化です。

テレビ番組放送後に何があったのかは存じませんが、武部さんの思いが通じたように思われ、「良かったなぁ」と安堵しています。番組の締め括りの文言同様、関西から映画文化が発信されたということに間違いはありませんから、これからも仲良くやっていきましょう。(文)  

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