おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.04.11column

「錦影絵」の調査

突然ですが、「錦影絵(にしきかげえ)」って、ご存知ですか?

大阪芸術大学芸術計画学科の池田光惠教授(当団体正会員)が率いる「錦影絵池田組」による公演とワークショップを7月2日に計画しています。このホームページのトップぺ―ジに「錦影絵池田組」のバナーも貼り付けていますので、どうぞご覧ください。今年は、国産アニメーション100周年ということで、当館も協力して今、京都国際マンガミュージアムで「にっぽんアニメーションことはじめ~『動く漫画』のパイオニアたち」展が開催されていますが、池田先生は、「錦影絵」を日本のアニメーションの原点として捉えられています。

まだ印刷はできていませんが、予定稿のチラシに池田先生が「錦影絵と京都」という文章を書いておられますので、その部分を紹介します。

………日本で現存する最古の和製幻燈機は、文政(1818~1831)初年のころ京都で作られたものです。また、明治の半ばには、姉小路にあった寄席・遊楽亭で、錦影絵が演じられていました。その当時の京都には、10人ほどの幻燈師がおり、地方巡業も行っていたとのことです。木製幻燈機を作る御眼鏡細工所も、江戸時代からありました。

 京都最後の幻燈師・歌川都司春の種板には、複雑な仕掛けと映写技術を要求されるものがあります。これら仕掛け種板のほとんどは、噺家・桂南天(初代)に譲渡され、現在は米朝事務所が受け継いでいます。

 このように、京都は日本の幻燈芸能の歴史を考察する上で、重要な地であるといえます。………

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4月9日に来館いただいたのは、山田哲寛(てつお)さんご夫妻。手前におられるのが、錦影絵について取材しておられる池田先生(右)と同大学生で「錦影絵池田組」メンバーの岡本真実さん。山田さん自身も、錦影絵師の経験があると、この日の取材でわかりました。

山田さんの祖父・健蔵は、前掲池田先生の文中にでてくる歌川都司春のことです。池田先生から受け取った資料「歌川都司春翁聞書書」[池田先生所蔵本の部分コピーで、小林源次郎著『写し絵』(中央大学出版部、1987年3月31日発行)所収]によれば、都司春は、1877(明治10)年、京都大和大路に生まれ、15歳位の時に京都姉小路西入ルにあった寄席「遊楽亭」で幻燈師(製造販売も)をやっていた吉川都調(川崎姓)に弟子入り。3年間の修業を経て18歳で一人前になり、23歳で独立したそうです。その頃には京都で10人位幻燈師が活躍していたそうですから、錦影絵が庶民に親しまれていた娯楽だったことがわかります。私としては、ミュージアム運営に関わることで初めて勉強したのが日本最初の映画スター・尾上松之助だったので、ついつい対照してみるのですが、その頃は尾上鶴三郎として大阪西区松島に居を構え、地方巡業していました。都司春もその後、名古屋へ行き、愛知、岐阜、石川などを巡回公演していたそうです。今も昔も地方巡回公演は盛んですが、明治の時代も、芝居、錦影絵などの興業が津々浦々の人々に親しまれていた様子を窺い知ることができます。

都司春が23歳で独立した1900(明治33)年の前年にあたる1899年11月28日に、柴田常吉が撮影したサイレント映画「紅葉狩」(日本人が撮影した現存する最古の映画ということで、2009年に重要文化財指定)が作られました。まだまだ撮影が珍しい時代のこととはいえ、少し後の世でも良いですから、幻燈を映した記録映像は残っていないのかしら?ちなみに、松之助が京都の千本座裏にあった大超寺境内で初めてレンズの前に立ったのは1909(明治42)年10月17日のこと。その6年前の1903(明治36)年7月7日に「紅葉狩」が吉沢商店の提供で大阪中座で初公開されています。横田永之助、牧野省三、松之助の3人が「随分面白かろう」と活動写真に取り組むまで、結構時間がかかっているのですね。映画が熱狂的に受け入れられ広がる中で、古典的な錦影絵の興行は次第に下火になっていったのかもしれません。

明治20年頃から、光源は種油からランプに変わり、都司春が入門した明治25年頃には既にランプ。この頃、滋賀、三重、福井、石川、岡山、広島方面の大劇場から招かれて、囃子方5人、「風呂」(幻燈機)を使う3人と大掛かりで興行したそうですから、吉川都調一座の幻燈は大評判だったのですね。都司春は自分で幻燈の道具を拵えて販売もしていたそうです。どこかの骨董屋さんで眠っていないかしら?

都司春は1905(明治38)年1月で引退し、錦影絵の技を息子の山田健三郎と噺家の初代桂南天さんに伝授。幻燈機一式は二人が継承します。その後1975(昭和50)年ごろ、健三郎は三代目桂米朝、桂小米、桂べかこに錦影絵の技を伝授し、健三郎が継承していた幻燈機一式も米朝へ譲渡。その結果、歌川都司春の幻燈機一式は、現在、米朝事務所に保存されています。

そして、上掲写真の山田哲寛さん(歌川都司春の孫)に至ります。哲寛さんのお孫さんがある日「学校で錦影絵について学んだ」と言うのをお聞きになって、びっくりされたそうです。既にご自宅から離れて、過去のものになってしまっていた「錦影絵」、しかも、池田先生らが今も「錦影絵」を創作して、国内外で公演し、その存在を、その魅力を広く知ってもらいたいと尽力されていることに、大変感激しておられました。この日もたくさんの貴重な紙資料をお持ちくださいました。

何とかこれらの紙資料と米朝事務所に譲渡された幻灯機一式、そして、まだどこかに眠っているかもしれない貴重な幻燈機に関する資料類をたずね、調査研究を進めながら、「錦影絵」の保存と継承をしていくことが大切だと、傍で話を伺いながら思いました。どなたか、できれば関西の方で幻燈機、錦影絵に興味関心をお持ちの方はおられませんか?ぜひご一報ください。池田先生たちと一緒に研究を深めていけたらと願っています。

予定稿のチラシに池田先生は「『錦影絵』は、デジタルコンテンツが席巻するあわただしい現代にあって、淡い郷愁と豊かな想像力を心に投影してくれる、素晴らしいアートです」と綴っておられます。先ずは、7月2日13時半からの「憑いてない日」(桜白浪憑依豆袋より)、「花輪車」公演とワークショップ「作って映そう錦影絵」にぜひご参加ください。「百聞は一見に如かず」です。和紙で作った大きなスクリーンの裏側で演者たちは「風呂」と仕掛けスライド「種板」を操ります。スクリーンの正面で観る影絵芝居は、私たちを物語世界に引き込み、「花輪車」の幻想的な美しさに、ため息がこぼれるでしょう。詳細は近日公開しますので、楽しみにお待ちください。

 

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