おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.04.26column

今だからこそ‼「プロキノと山本宣治ー京都における『政治と映画』」

何とか無事に4月に計画していた催し3つが終了し、安堵しています。それぞれの催しで出演、発表、資料提供をしてくださったお一人お一人に厚く御礼を申し上げます。そしてご多忙の中、ご参加いただきました皆さまにも心より御礼を申し上げます。おかげ様でいずれの催しも内容の濃い充実したイベントで、お集まりの皆さま方にも好評でした。それぞれの催しには後日発表者、あるいは演奏者からレポートが届く予定ですので、楽しみにお待ちくださいませ(新着情報で掲載します)。

ここでは、スタッフの立場から順に思い出しながら駄文を綴ります。先ずは4月15日(土)13時半、日本映画・日本文学研究、同志社大学人文科学研究所嘱託研究員(社外)の雨宮幸明さんによる研究発表会から。

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 これは、当日取材に来てくださった京都民報さんの23日付け記事。これに先立つ4月11日付け京都新聞にもワイド面で告知記事を書いていただきました。雨宮さんの研究範囲は幅広いのに、山本宣治を前に出しての発表をお願いしたこともあり、当日まで随分腐心されたようで申し訳ないことでした。用意された配布資料はA4用紙にびっしり8枚。

報告内容は、大きく次の2点。

1、山本宣治の政治活動とプロキノの映画製作ー「山宣告別式」と「山宣渡政労農葬儀」

2、戦後における山本宣治と「武器なき斗い」映画製作運動の成果

1では、ここに挙げた2作品の映像を見せていただきました。1920年代~30年代の日本社会は、マルクス主義やプロレタリア芸術運動が知識人や労働者に魅力的な思想となり、その旋風が吹き荒れていました。プロキノ(日本プロレタリア映画同盟。1929~1934年)が設立される前の1927年に、共産主義運動家の佐々元十は、お金持ちの趣味道具の一つだったパテ・ベビー(9.5㎜)カメラを用いて、「1927年メーデー」を撮影し、労働映画製作を提唱しました。1929年2月にプロキノが設立され、1930年には第一回作品公開「プロレタリア映画の夕べ」を開催、労働者階層の熱烈な支持を受けます。佐々元十が書いた「玩具・武器ー撮影機」(『戦旗』、1928年5月)に、安価で小型のパテを用いることで、プロキノによる自主映画を作ることが可能であると述べています。彼が使用した映写機は、ウィキペディアに載っている写真を見ると当館所蔵のものに似ているので、参考に掲載します。

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そして、下掲はパテのカメラ(当館所蔵)です。

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しかしながら、1931年9月の満州事変後に言論統制が強化され、官憲による執拗な上映妨害もあり映画製作が困難になります。折からの満州景気もあって運動は下火になり、ついに1934年にプロキノは組織的活動を停止します。この間に作られた約50本の映画は、その多くが弾圧によって散逸したそうです。 

戦後になって、プロキノのフィルム発掘と復元がなされ、1979年に牧野守の呼びかけに応じて「プロキノを記録する会」が結成されます。翌年復元された現存フィルム6作品が解説字幕をつけて一般公開されました。2013年9月に六花出版から「DVDプロキノ作品集」刊行の折りには、講師を務めてくださった雨宮さんが多大な尽力をされました。今回見せていただいたのは、その中の2作品です。

そのうちの1作品「山宣告別式」(1928年3月8日早朝撮影)は、松竹の俳優岡田桑三が松竹蒲田撮影所にあった35㎜フィルムを用い、川喜多長政がドイツから持ち帰ったカメラを借用して撮影。5日に東京神田の宿舎で七生議団黒田保久二に殺害された山宣の遺体は、7日に東京帝大医療室で司法解剖され、その夜のうちに本郷追分キリスト教会青年会館に運ばれました。作品は8日早朝、同会館から東京大学仏教青年会館に運ぶ1.3㌔の行程を撮影したもので、約2分。

もう1作品の「山宣渡政労農葬」は、宇治にある山宣の生家、旅館業「花やしき」からの資金提供を受けてプロキノ京都支部が作りました。3月9日に遺骨が京都に到着した時から2班に分かれて撮影、15日三条青年会館での葬儀まで撮影を続けていますが、撮影をした松崎啓二の記録では、「最期の五分間で野郎どもの襲撃(略)フィルムは没収」。緊張した中での撮影がされたことが伝わってきます。「花やしき」には、検閲を受けることなく未公開のまま保管されているオリジナルフィルムがあるそうです。発表後の質疑応答で、このフィルムの保管状態を気にする質問もでました。もう一本、東京での公開に使用されたプロキノフィルム版もありますが、山本家所蔵のものより短いそうです。検閲や没収、自然劣化による破損が原因として考えられるそうです。

2つめのテーマにつきましては、戦後に書かれた西口克己『山宣』(中央公論、1959年4月)と山本薩夫監督『武器なき斗い』(1960年公開、大東映画)を取り上げて発表されました。西口は、山宣会から、山宣虐殺30周年ということで執筆を依頼され、事実を書きたいと思ったそうです。山宣会が発足したのは没後20年にあたる1949年。西口の本を読んだ大阪総評青年部長・大阪交通労組青年部長の宮崎守正らが映画化を望み、山本薩夫監督に依頼。労働組合のカンパで69,822,746円が寄せられたと協力監督・小坂哲人の手帳に記されているそうです。小坂哲人は大阪シナリオ学校の初代校長だと雨宮さんの資料にあるのを見て、ふと思い出したのですが、私のミスで未だ上映ができていない木村荘十二監督『末っ子大将』も1960年。大阪府内在住の村田忠昭さんが大阪母親プロ委員会企画が募集した作文に応募した作品を原作に、依田義賢が脚本を書きました。当時依田は、大阪シナリオ学校で特別授業としてシナリオを教えていました。依田は、『武器なき斗い』で山形雄策と共同で脚本を書いています(このことについては新着情報で以前連れ合いが最後部分に書いています)。山本薩夫監督に呼ばれただけでなく、小坂哲人も依田抜擢に一役買ったのではないかと想像します。

映画では、小説『山宣』の後半部のみを映画化し、「無産者階級の英雄」として山本宣治を描いています。これは1960年の安保闘争とその反対運動を組織した総評が映画製作の中心となったことによると雨宮さんは考えておられます。独立プロ名画特選として『武器なき斗い』はDVD販売されています。関心がある方は、どうぞご覧ください。その解説文に「労働者たちのカンパで作られた本作は、『60年安保』が高揚した1960年、浅沼稲次郎社会党委員長がテロに倒された直後に公開され話題となった」とあります。

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研究発表会開始前に、衆議院議員日本共産党国会対策委員長穀田恵二さんが秘書の方を伴って来館。国会議員の方の来訪は初めてなので、びっくりポン‼でした。京都民報の記事を書いてくださった稲次記者が、事前にネットで告知記事を書いてくださったのをお読みいただいて、「次に奈良へ行く予定がなければ、ぜひとも聴講したいのですが、残念でたまらない」とおっしゃってくださいました。

「学生時代に、山宣についての映画を見た。国会議員になってからは、毎年1月1日に山宣のお墓参りを欠かしたことがない。国会の記録を調べたことがあるが、映画『武器なき斗い』に描かれている質疑の内容は全く事実そのままだった」などと気さくに話してくださいました。自らミュージアムのチラシを手に取られ「政治色を除き、ひとりの映画ファンとして改めて見学に来たい」とおっしゃられたので、「日本では貴重な無声映画の残存率が極めて低いので、それを発掘し、復元して、次世代に継承できるよう保存する活動をしている。こういうことは一個人でできるものではない。公的なところがするべきことだ」と正直に申しました。選挙がらみで受け止められると困りますが、実際の様子をお伝えできたのは良かったと思います。

交流会にも参加していただいた方から、その後いただいたメールをご本人の許可を得て掲載します。

…研究会ではプロキノを通じてその時期の世相が反映しているのかと感じました。また、山本宣治を取り上げられたことは、この時期むしろ新鮮にとらえられるものでした。このような作品は、一般映画興行では敬遠されがちではありますが、保管され研究もされておられるのは知りませんでした。映像を保管していても、単に保管するのではなく、折りにふれ公開して、その時点の視点で新たに感じ取るのも良いのかなと思います。特に行政は記録映画を上映するのも“忖度”いたしますから、このような作品の機会は、よほど求めていかないと出会わないのではないかなと思います……

この方は、病院に長くお勤めでした。「病院に来られる人の中には貧しい人や複雑な環境の中で生きておられる人もたくさんおられる。その方たちのために心を砕こうと思うと『それは、あなたの仕事ではない』と言われてしまう。困っている人を何とか助けたいと思う時、結局は政治の問題になってしまう。それは山宣も同じだったと思う」と話されたのが強く印象に残りました。

プロキノと山宣

最後の最後に残った人たちと、恒例の腕組みをして記念写真。中央の背の高い男性が、発表者の雨宮幸明さん。準備大変でしたでしょう、心から御礼を申し上げます。

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