おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2017.05.02column

大盛会‼国産アニメーション誕生100周年講演「凸坊新画帖からアニメへ」

4月23日(日)は圧巻の光景で胸がいっぱいになりました。参加者の顔ぶれは発表者のお一人、津堅信之さんの言葉をお借りすれば「腕に覚えのある猛者が多い」ということになり、宮城県、東京、神奈川、愛知、滋賀、大阪、兵庫、佐賀、地元京都、そして海外からの大学院留学生5人も加えて大変賑わった会場でした。いつもは最後に掲載する集合写真ですが、先ずはその様子をご覧ください。

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皆さま、お忙しい中を参加して下さり、本当にありがとうございました。これだけの人が集まってくださったのは、この日のスピーカーであり、京都国際マンガミュージアムで7月2日迄開催中の「日本アニメーションことはじめ~『動く漫画』のパイオニアたち~」展を企画したAnimation As Communicationの森下豊美さんと新美ぬゑさんのご尽力の賜物ですし、二人の呼びかけに快く応じてくださったアニメーション研究の第一線で活躍されている津堅信之さんの登場あればこそと、心から感謝しています。

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司会進行は森下さんにお願いしました。当日のレポートは、いずれ新美さんから届くとおもいますが、私の方でも振り返りながら少しばかり書いてみます。

トップバッターの森下さん(Animation As Communication代表。アニメーション作家、研究者、名古屋学芸大学・名古屋芸術大学非常勤講師。京都精華大学大学院生)のタイトルは「下川凹天アニメ―ション再現におけるレポート」。2014年8月9日~10月5日川崎市市民ミュージアムで開催された「下川凹天と日本近代マンガの系譜」展のために下川のアニメーションを制作され、その過程を通じて着目した2点について発表されました。1つは、黒板アニメーションの白墨(チョーク)作画による表現の限界。もう一つは、アニメーション制作を断念するきっかけとなった目の手術と、手作りトレース台との関係。講演内で2014年に森下さんらが制作されたその再現アニメーションと平成版「芋川椋三とブル」を見せていただきました。これらは京都国際マンガミュージアムの企画展でもご覧になれます。『芋川椋三とブル』の「芋川椋三」とは下川が作ったキャラクターで、現在のアニメーション作家たちによって尊敬を込めて新たに制作されたものです。

素人でお恥ずかしいのですが、28日に京都国際マンガミュージアムの展示を見て知ったことなのですが、催しのタイトルにある「凸坊新画帖」の「凸坊」は、下川凹天の師匠、北澤楽天が創作した漫画のキャラクターで、この漫画は当時大人気に。明治末頃には、漫画の代名詞として広く使われていたこともあるそうで、日活の前身だった映画会社「福宝堂」が、海外のアニメーションを公開するときに「映画版の凸坊漫画」という意味で「凸坊新画帖」と名付けたのだそうです。

最後に発表された津堅さんの話によれば、1897年日本で活動写真が公開されてから(今年は映画120年の記念の年でもあります)余り時間が経っていない1907(明治40)年、1908(明治41)年にアメリカで作られたアニメーションが公開され、当時の読売新聞の映画案内に「魔術」という言葉が使われていたそうです。人間が描いた絵が動くことに、人々が驚いたことがうかがえます。

1917(大正6)年1月、天活(天然色活動写真株式会社)と契約した下川は、屋外で黒板にチョークで絵を描き、カメラマンがそれを撮影して活動漫画フィルムを制作していました。その後、背景を印刷してその上に作画するペーパーアニメ―ションに替えましたが、手作りしたトレース台の影響で目を悪くし、翌年に辞めざるを得なくなりました。同時代の他の作家のような切り抜き制作手法に辿り着けなかったのが惜しまれます。アニメーション作りに関する情報が何もなかった時代に、森下さんの表現を借りれば、日本で最初にアニメーションを作った下川は、「試行錯誤しながら自力で方法論を模索した結果、手間がかかる方法で制作し、結果目を痛めて継続できなくなった」先人でした。

 下川の作品は今のところ1作品も見つかっていないそうです。おもちゃ映画ででも見つかれば良いのですが。展示によれば、1917年1月頃発売された活動写真雑誌(3巻3号)に掲載されている「凸坊新画帖『芋助猪狩の巻』封切」の記事が、今のところ一番古い記録なんだそうです。

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新美さんのタイトルは「『にっぽんアニメーションことはじめ』展の報告及び、北山清太郎作品の新発見資料について」。彼は、前掲川崎市市民ミュージアムでの展示に際して、資料調査、展示デザインを担当され、今回の京都国際マンガミュージアムの展示でも、展示構成を担当されました。もともとはデザイナーの仕事の傍ら、大阪府立中央図書館国際児童文学館特別研究員として古いマンガを研究されているます。「アニメーションの歴史は、だいたい手塚治虫の鉄腕アトムあたりから語られることが多く、戦前のものはフィルムがないこともあり、かなりないがしろにされている。こういう展示をすることで、そういう作品や作者たちに注目が集まればいいと考えた。100周年の展示企画が色々あると想定して、今回の展示は戦前のものに特化したが、他の館での展示がなく、そういった他展示での補完がされないので困ったなぁと思っている」と話出されました。

当館でも、昨年から「国産アニメ100年」に関していくつかの団体から問い合わせがあったのですが、実際に関わったのは彼らの企画展だけ。現在の日本のアニメは「クール」と人気が高いのですが、うちで保存しているおもちゃ映画も同様に、古いものはつまらない、遅れていると思われているのか、あまり関心を寄せてもらえないのが悔しいです。決してそんなことはありません‼ 創意工夫しながら作ってきた先人たちのことや作品をもっともっと知ってもらいたいです。京都国際マンガミュージアムの展示構成は、①下川凹天、幸内純一、前川千帆、北山清太郎の4人のパイオニアたち(前川を加えた4人の作家に焦点をあてたのは今回の展覧会が唯一‼)のアニメーション制作以前の流れ、②国産初のアニメーションが公開された約1年半の流れ③戦前期の漫画とアニメーションの関りから見える、戦後へと繋がる流れの3セクションと②の補足となる映像の展示もされています。「百聞は一見に如かず」ですから、ぜひご自分の目でご覧になっていただきたいです。

今回の目玉は、新美さんが発見された北山作品のアニメーションを使った絵物語4作品。1918年の幼年向け雑誌に掲載されたもので、この発見により、これまで日本で2番目に古いとされていた『浦島太郎』のアニメーションの作者は北山とは別人である可能性が高くなりました。現在、東京国立近代美術館フィルムセンターがWEB上で公開している日本アニメーション映画クラシックスが、今後どのように対応されるのか注目です。

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そして、東京へ引越しされる前に、来館いただくことができた津堅さん(日本大学芸術学部映画学科講師)によるタイトルは「北山清太郎の仕事:アニメの可能性を拡大したパイオニア」。手にしておられるのは10年前に出版された『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』(2007年、臨川書店)。この時は、北山清太郎の娘さんが健在でお話を聞くことができたそうです。10年前はパイオニアは3人と考えられていて、1917年に天活の下川、天活から分離した小林商会の幸内と前川、日活の北山がアニメを公開しました。

津堅さんは、「なぜ北山に注目したか」についてお話されました。それは北山が他の二人と際立って異なっていたからだそうです。

①アニメ製作を事業化できたことが大きい。他の二人はスカウトされましたが、北山は自らの企画を売り込み、唯一能動的でした。北山自身のほかにスタッフを最大5~6人使って量産(作品によってキャラが異なっている)。月に1本新作をリリース、量産しないとやっていけないことでもありました。手塚治虫の『鉄腕アトム』より50年前に経済的に作ることを考え、切り紙を繰り返し使うなど省力化しました。

②アニメーションの範囲を広げた。国の施策である貯蓄推進の宣伝映画や『桃太郎』『猿蟹合戦』など子ども向け教育映画なども作りました。国産映画の字幕スーパー(本人のネーミングは「アートタイトル」)を考案して、実写映画に使っていたそうですが、フィルムが残っていないので実態は不明。これに関しても今後フィルムが発見されれば、研究が進むと思います。

③アニメーション・スタジオを構えたこと。日活向島製作所にスタジオを構えることで、一日中電気をつけて制作することができました。元々北山は水彩画家でしたが、実業家の方に興味があり、プロデューサー的センスの持ち主でした。ちなみに、『なまくら刀』を作った幸内も制作所を作り、政治関係の短編アニメを作っていますが、彼の場合は漫画が本業で、アニメは余技だったそうです。

とはいえ、当時は規模はまだまだ小さく、アニメーションが映画にポジションを占めるようになるのは、もう少し後の昭和初期、次の時代の村田安司や政岡憲三らアニメーターたちの活躍から。政岡は東映動画に繋がります。

なお、津堅さんは、『アニメ作家としての手塚治虫』(2007年、NTT出版)、『ディズニーを目指した男 大川博』(2016年、日本評論社)、『新版 アニメーション学入門』(2017年、平凡社新書)刊行などアニメーション研究で大活躍されていますので、関心をお持ちの方には、ぜひともお手に取ってお読みください。

休憩をはさんで後、館長がおもちゃ映画について説明し、所蔵する作品をご覧いただきました。内容は▼山本早苗『日本一桃太郎』▼木村白山『漫画桂小五郎と凸坊』▼村田安司『太郎さんの列車』(1929年)と『空の桃太郎』(1931年)▼酒井七馬『忍術火の玉小僧 海賊退治』▼海外の手塚風キャラのアニメーションの例として『王様の仕立て屋(キングズ・テーラー)』(1936年)。

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パワーポイントで系譜を示していただきましたが、写真が不鮮明で申し訳ございません。森康二の下矢印は大塚康生、その下矢印は宮崎駿、藪下泰司の真下の矢印は高畑勲です。

DSC00716 (4)続いて津堅さん、森下さん、新美さんによる鼎談「凸坊新画帖からアニメへ」。

・森下さんから「今のアニメとの繋がりをマスコミからよく聞かれる。おもちゃ映画ミュージアムで不詳としている戦前のアニメーションには、背景とキャラクターが全く別の手によるものが結構ある。アニメの分業制は戦中、戦後にも行われ、作品の統一性を無視したあり方は現在も同じで、商業的に成功するため、日本では継続されてきたのか?」の問いかけに、

津堅さんは「商売の前提はマーケットがあること。北山清太郎の時代は、さほど規模は大きくなかったが、量産、事業課を目指した。ディズニーは分業化を成功させ、大量生産に結び付けた。1914~15年にアメリカのアニメーターが考えたセルの特許を取り、セル画を最大限に効果的に利用した。セル画のメリットは、誰が描いても同じタッチだということ。ディズニーはたくさんの人を使って『白雪姫』を作った。それに対して、切り紙に絵を描くのは、画家によってタッチが違う。上映された昔のアニメを見ると『動きを頑張っているなぁ』と思う」と話されました。

・新美さんから「北山のスチルで『猿と蟹』をみると、下川の白黒の作品を参考にしている気がする。幸内の切り絵を参考にした可能性もあるが?」との問いかけに、

津堅さんは「アニメーションの技術は秘密だった。それなのに、北山は敢えて人を集めていたのは面白い」と話されました。

・新美さんから「幸内と共に制作した前川を加えて今回は4人を取り上げたが、残ったのが北山だけで、その弟子の山本早苗は東映動画の礎を作った。山本の書いているものを読むと、北山は自分を大きく見せて、話を盛っている気がする」との問いかけに、

津堅さんは「時々北山を胡散臭いと見る人もいた。しかし、事実については結構信憑性がある。10年経って、ようやく北山について語れるのは本当に嬉しい。最初期は資料、作品が残っていないので、周辺からの情報に頼らざるを得なかったが、今回の新美さんの発見は、これからこうした面の研究をしようという人たちの良い指標になる」と話されました。

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終了後に残った皆さんで乾杯!皆さん、とっても良い笑顔です。皆さまのおかげで、とても充実した会になりました‼ 個人的には、この日の研究発表と京都国際マンガミュージアムの展示と併せて、草創期の国産アニメーションの様子を知ることができて、とても勉強になりました。新たにパイオニアの一人として取り上げられた京都市下京区出身の前川千帆について、もう少し知りたかったなぁという思いもありますが、資料がほとんどない時代のことですので、難しいのでしょう。二人の今回の取り組みが契機になって、今後この分野の研究が進むことを期待しています。

 

追記:前掲の東京国立近代美術館フイルムセンター「日本アニメーション映画クラシックス」を改めて検索したところ、4月29日付けで「本サイトで現在公開を行っている作品の一つ『浦島太郎[デジタル復元版][白黒ポジ染 色版]』について、従来、北山清太郎による作品と考えらえれていた本作が、別の作家による作品であること が新たな研究により明らかとなりました。現在、本サイトの掲載内容の変更等、調整を行っております」の文章が掲載されていました。調整結果を楽しみに待ちたいと思います。

 

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