おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.02.10column

いよいよ12日に『魔法の時計』研究発表と活弁・生演奏付き上映会‼

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いよいよ明後日、人形アニメーションの傑作『魔法の時計』(1928年)をテーマにした研究発表と上映会を開催します。

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1月31日付け京都新聞広域面イベントコーナーで内容を紹介していただいただけでなく、見出しにも使っていただき感謝しています。

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そして、2月8日付け朝日新聞京都版のイベント紹介コーナーでも紹介していただきました。

最初の告知以降、遠方からもお申し込みをいただき大変嬉しく思っています。チラシに掲載が間に合わなかったのですが、当日はラジオパーソナリティ、作曲家としてもご活躍のピアニスト天宮遥さんにも出演していただき、坂本頼光さんの活弁に伴奏をしていただきます。昨年11月19日に開催した「ロシア革命100年映画史に残る不朽の名作『戦艦ポチョムキン』」(1925年)上映の時にも伴奏をしてくださったので、覚えておられる方も多いでしょう。

今回取り上げるラディスラス・スタレヴィッチは、1882年ポーランド系両親の元にモスクワで生まれ、博物学と美術を学びました。博物学の授業用に映画を用いようと、ある時夜行性の昆虫を撮影しようとして失敗。それなら本物そっくりの人形を作れば良いと取り組みます。最初の人形アニメーション『麗しのリュカニダ』や『カメラマンの復讐』(1912年)などを作りますが、1917年の第二次ロシア革命を機にフランスへ亡命します。『魔法の時計』は亡命後のパリのアトリエで作られたもの。

傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』の鈴木重吉監督は、欧州巡遊中にヴァンセンヌの森の中にあるスタレヴィッチのアトリエを3度にわたって訪問し、その時のことを『サンデー毎日』1930年3月30日号に「人形映画の慈父『魔法の時計』の製作者スタルヴィッチ訪問記」の題で書いておられます。ある日曜日にアトリエを訪問した鈴木は、スタレヴィッチの愛娘二イナ・スターと遊んでいるうちに、彼が作った人形を全て引っ張り出してスタレヴィッチ、二イナと一緒に写真を撮り、記事にはその写真を添えています。「人形は全部質のよいなめし皮製でできてゐて極彩色でどれもこれも精巧の極地である」と紹介しています。

この作品は、世界各地で大評判になり、日本でも1930年大阪の毎日新聞社が輸入して、大阪中央公会堂で上映され、評論家らに大絶賛されました。余りの反響に後に16㎜版、続いて9.5㎜版として発売されました。この度、コレクターとしても著名な本地陽彦先生が9.5㎜版予約受付のチラシを送ってくださいましたので、その一部を紹介します。

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「『昭和6年4月末』が予約申込み締め切りですので、同年5月には販売されたのではないでしょうか」と本地先生。1巻17円が4巻ですから68円。今ならいくらに相当するのかしら?比較するモノによって大きく異なりますので、何にしようかと思いつつ目を止めたのが昭和6年の封書(15gまで)郵便代3銭(週刊朝日編『値段史年表』参照)。「えーっと」、ない頭を捻りましたが、もともと算数が大の苦手なのでネットで検索しましたら、便利なサイトがありました。2016年に換算すると159,651円だそうです。高いですねェー。日頃から「こうしたフィルムはお金持ちの家にあった」と説明していますが、『魔法の時計』全4巻を購入した人は一体どの位おられたのか気になります。

さて、昨年11月に開催した「持永只仁展」に際して知り合いからお借りしていた「第4回国際アニメーションフェスティバル広島大会」(1992年)のカタログや資料を改めて繰っていて、特別プログラムとしてスタレヴィッチ回顧特集が組まれ、人形展もあったことに今頃気付きました。展示されたのは『マスコット』『竜の目』『シダの花』『アリとキリギリス』などの作品で用いた人形たち。最も驚いたのは、孫娘でもあるアニメーション研究家ベアトリス・マルタンさんが広島に来られた時のインタビュー記事。彼女は、1956年スタレヴィッチが74歳から1965年83歳で亡くなるまで一緒に過ごした中で印象深い二つの思い出を語っておられます。一つは、毎日夕方になると二人で窓辺にやってくる小鳥たちにパンを与えたこと、もう一つは第1回目の心臓発作が起こった後に、彼は収集していた昆虫、蝶、小鳥の剥製を庭に積み上げて燃やしてしまったという悲しい思い出。これらの小動物たちは全て映画の中でアニメ―トされ、マルタンさんにとっては子ども時代の宝だったのです。「生涯ずっと自然を研究し、再現してきた彼が自らの手でそれらを焼き亡ぼし、自分の生活そのものに終止符を打ったのでした。自分の人生に自ら別れを言ったのでした。それから間もなく祖父はこの世を去りました」と話しておられます(「ラッピーニュース」8月23日号)。

そこで思い出すのは『魔法の時計』の一場面で、時計作り名人のボンバスタスが娘のヨランドに叫んだ言葉「ヨランドよ!お前は何故運命の裁きを延ばすのか!」。ヨランドは勇敢な騎士ベルトランが殺されるのを見かねて、時計の針を戻してしまったのです。また、鈴木監督の一文も思い浮かびます。「彼の人形は決してマリオネット(あやつり人形)の動きではない。彼は人形を形の上で動かすことより霊魂や思想を所持する完全な生物として示してゐることである」。上掲チラシに「物語は一篇の童話ではありますが、一面には哲学的な深遠な意味が含まれてゐるのです」とありますが、こうした彼の哲学が世界中の人に共感をもって受け入れられたのではないかと思います。彼は自らの考えを最晩年に実践したのでしょう。

公開当時大きな話題を集めた『魔法の時計』ですが、今日では滅多に見る機会がありません。貴重な機会ですので、一人でも多くの方にご覧いただき、「人形アニメの父」と呼ばれ、世界中の製作者に多大な影響を与えたスタレヴィッチのことを知って貰いたいと願っています。

 

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