おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2018.09.20column

研究発表と上映会「木村白山って、何者?」5時間を超え、充実内容で開催しました!

木村白山って、何者?A - コピー - コピー

9月9日(日)14時から、上掲3人の先生とピアニスト天宮遥さんをお迎えして、国産アニメーション草創期に活躍した「木村白山」について考える催しをしました。参加者は33名という大盛況。近畿はもとより、関東からも大勢お越しいただき、その中には研究者が多く含まれていました。謎が多い「木村白山」への関心の高さがうかがわれます。

丁度アニメーション史の第一人者「渡辺泰展」開催中でもあり、先生と話をしているうちに、どんどんサプライズ上映希望が増えていき、想像をはるかに超える時間になってしまいました。それで、2部構成にし、終了後にお残りいただいた皆さま方と茶話会を楽しみながら、時間の許す限り「木村白山に迫ろう」という趣向で進めました。

第1部は

1)おもちゃ映画11作品を上映。

①夢の浦島②日の丸は輝く 突撃③少年漫画 近藤勇と凸ちゃん④漫画 桂小五郎と凸坊⑤腰抜け武士⑥砂煙高田の馬場⑦漫画 茶釜騒動⑧漫画 凸坊猛獣狩⑨不詳<手品師>⑩大冒険漫画 無人島探検⑪漫画 忍術チビスケ。

 ※⑧「漫画 凸坊猛獣狩」と同じ作品が、今年1月オーストラリアのフィルムアーカイブからデータで寄贈されたことを、第3部の交流会で説明しました。寄贈を受けた作品については、こちらで書いています。

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演奏の天宮遥さん。この日上映した作品は、直前までバタバタしたこともあり、事前にお伝えすることができず、全て初見での即興演奏。無理な願いに見事に応えてくださいました。おかげ様で、一期一会の上映会、ライブパフォーマンスを会場の皆さまと一緒に楽しむことができました‼

彼女は今、無声映画の伴奏をすることが楽しくて堪らないそうです。今後、基本的に毎月第二日曜日の午後、彼女に生演奏をして貰いますので、どうぞ、お楽しみになさってください‼

2)研究発表①渡辺泰先生「木村白山のアニメーションについて」

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当日は、先生手作りの木村白山フィルモグラフィーを皆さんに配布しました。おそらく白山についてのものは初めてでしょう。1924年「赤垣源蔵 徳利の別れ」から始まり、1941年「勤倹貯蓄 塩原多助」まで32作品(玩具映画除く)を網羅。68年間にわたる先生のアニメーション研究の姿勢として、「先ずフィルモグラフィーを作る。このことで全体像が浮かんでくる」のだそうです。

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・1924年の最初の作品「赤垣源蔵 徳利の別れ」について、杉本五郎さんは「浪曲のテンポに合うよう作画している」と述べていた。討ち入り前夜に兄に分かれを告げに行くが、留守だった。そこで、掛かっていた兄の着物に盃を置いて別れを告げるという話。忠臣蔵に出てくる赤垣源蔵の正しい名前は赤埴源蔵で、小説が良く売れた。

・2番目の作品1924年の「蟹満寺縁起」は、木村白山唯一の影絵アニメーションである。1922年にドイツのコロナ映画社のシュウマッハが製作した影絵アニメーション「Kalif Storch(邦題はカリフの鶴」(2巻17分。原作はドイツの童話作家ハウフの「コウノトリになった王様」)が、1924年2月15日に東京の東洋シネマで公開されて、人気を呼んだ。木村白山は、このドイツ式影絵を見て、シルエットアニメで表現をした。監督が内田吐夢なのに驚く。大藤信郎(1900-1961)もこの作品に刺激を受け、1927年影絵の「鯨」を製作した。後の1952年にリメイク版カラーの「くじら」を作ってカンヌで次点になった。

・1925年の「ノンキナトウサン竜宮参り」は、麻生豊が報知新聞で連載して大人気になったキャラクターが主人公。略して「ノントウ」は、寅さん的な性格で、職についても失敗ばかりでユーモラスで人気があった。夢落ちのアニメ。

・1926年の「松ちゃんの剛勇」「松ちゃんの定九郎」は、目玉の松ちゃんが登場して活躍する。大衆に人気があったそのキャラクターを借りて、白山が作ったパロディ・アニメ。木村白山は、時代に敏感に反応して、アニメを作っていた。

・1928年の「日の丸は輝く」は、日露戦争がテーマ。凸山上等兵が敵に撃たれる。最後に日章旗を掲げる戦争賛美の作品。

・1927年リンドバーグが大西洋横断に成功し、アメリカ航空産業の基礎を築いた。翌1928年これをヒントに、白山は凸ちゃんを主人公にして成功する作品「太平洋横断飛行」を作る。このことからも時代の先端を行く作品を作っていることがわかる。

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と、ここまで話される途中から、みるみる渡辺先生の体調が変化してきたので、急遽お休みしていただくことにしました。突然のことで一時は大変心配しましたが、この振り返りを書いている現在は、すっかり体調を回復されています。ご安心ください。後でお聞きしたのですが、先生は9日の研究発表の為に、なんと100枚を超える原稿を用意されたのだそうです。そこで、その原稿を私共の手で後日手打ちして、いずれミュージアム小冊子として発行しようと思います。「木村白山」に特化した初めての冊子になるでしょう。先生がおっしゃる「途中退席のリベンジ」は、小冊子発行で叶えます。どうぞ、楽しみにお待ちください。

研究発表②河田明久・千葉工業大学教授「絵師・木村白山の片影」

143_1021.01_27_52_13.Still008 - コピー河田先生は、美術方面から木村白山像についてお話くださいました。登壇をお願いしたところ「自分の勉強になるから」と、快く引き受けてくださいました。当日は、実物の挿画集『聖戦美談 興亜乃光』(省文社、1939年11月)と、白山が9作品を担当した『大東亜決戦画集』(省文社、1943年2月)も参考に用意して、皆様にご覧いただきました。

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白山は、看板絵やパノラマ絵を描いていた。「パノラマ館」の背景画を手掛けていたのかもしれない。しかし、日露戦争時に映画が躍進し、「パノラマ館」は衰退する。彼にとって、映画の登場は衝撃だったろう。昭和に入って「パノラマ館」は形を変えて、「博覧会」として注目される。当時のテーマパーク、遊園地のようなものとして人気があった。

一番最初に見られる白山は、「大毎フェアランド」で、1937年3月25日~5月25日に阪急西宮北口の「日独防共館」で「白山が絵を描いていた」と中川童二という人物が『ランカイ屋一代』(講談社、1969年)という回想記に書き残している。ランカイ屋は今で言えばディスプレイの会社で、当時の大ランカイ屋には、陸軍エリアの乃村工藝社と海軍エリアの研精社があった。木村白山は後者の側だったのかもしれない。

1939~1944年まで、戦死者を合祀する靖国神社の春と秋の臨時大祭期間中、大熊氏廣の大村益次郎銅像を中心とする外苑は、両社が請け負って、さながら戦争のテーマパークだった。1942年の春季大祭では、真珠湾攻撃の大パノラマを描いている。白山は下絵を提供し、研精社の人々が一斉に描いたのではないか。読売新聞1942年4月22日付けに大パノラマが掲載。1944年「春の臨時大祭」でも、4月16日付け東京朝日新聞に「日本軍時工芸㈱や(木村白山)画伯門下の人々の手で」と記述がある。この大パノラマは20日までに完成した。

大人向けの日中戦争の絵本、挿画集『聖戦美談 興亜乃光』は、全60作品を、13人の「先生」が描いているが、そのうち木村白山10作品、加藤たかしも10作品と、多く手掛けている。これを見ると、絵描きとしての適性がわかる。加藤たかしは人間を恰好良く描いているのに対し、白山は背景を描写して、人間が活躍する絵は不得意だったのではないか。彼は背景画が得意な人と思われ、上映されたおもちゃ映画を見ていても、白山は背景を担当したか、提供したのではないだろうか。

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研究発表③文化資源学会員・藤元直樹さん「木村白山を探す:伝承の系譜をさかのぼって」

藤元資料20180920 (4)

(お写真を辞退されましたので、代わりに当日配布していただいた資料の1頁を載せました)

今年3月3日日本アニメーション学会歴史研究部会研究会が専修大学神田校舎で開催された折り、登壇されたとちぎあきらさんの「木村白山を招喚する 台湾で見つかった『漫画 砂煙り高田のグラウンド』をきっかけに」を聴講され、木村白山について、ほとんど何もわかっていないことに興味を持たれ、資料を探索されたことに基づいてお話くださいました。当日は、B5版にびっしり書かれた12枚分の資料を参加者に配布して下さいました(上掲はその一部)。後日、渡辺先生がこの配布資料をご覧になって「僕も知らないことが書いてあった」とおっしゃり、今後先に述べた原稿に手を加えられるのでしょう。こうして、謎に満ちた「木村白山像」が徐々にでも明らかになってくるのは、誠に喜ばしいことです。

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①資料として出てくる一つに、1954年の富山産業大博覧会で「郷土の歩み」館に関わったものがある。現在の富山市の郷土資料館は、この博覧会のレガシーなので「ダンボール箱の中に契約書など何か資料が残っていませんか?」と問い合わせたところ、「ありません」との返事がきた。

②『大阪YMCA100年史』(1982年)の136頁あたりに<大阪青年>大正7年1月に掲載されたという木村白山さんの記事が引用されている。大阪YMCAに現物がないか、あるいは、この記事の前後に木村白山について何か書いていないか調査する必要がある。

③検閲月報をもとに調査した。大正15年7月から内務省で統一して、検閲をするようになったが、その検閲月報は戦後廃棄された。しかし、元検閲官だった鳥羽幸信さんが残していたものがフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)にあり、牧野守さんが「大事なものだから」と訴えて復刻版が出た。そこに、「木村白山」が出てくることから、木村白山は個人名ではなく、会社名、屋号、製作所ではないかと考え、活動写真フィルム検閲時報/映画検閲月報で、製作者木村白山と表記されているものをリストアップしてみた。つまみ食いでまだらだが、木村白山に迫る「たたき台になるかなぁ」と思って、3月14日にWEBサイトのresearchmapで掲載した。

④自主制作したものの小石川署に検挙され、フィルムが押収されたと言われているポルノアニメーション「すずみ舟」(1932年。「すゞみ舟」とも表記)について、資料調査を踏まえて発表。

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藤元さんは、戦前の電話帳でも木村白山を探してみるなど、数々の資料を探索して「木村白山」に迫ってくださいました。多くの皆さんが関心を示す④「すずみ舟」につきましては、既にアフターレポートが届いていて、そちらの方で詳しく書いておられますので、ぜひご覧ください。

なお、今回の研究発表会に際し、昨年フィルムセンターに寄贈された「すずみ舟」を何とかお借りして上映したいと幾度も依頼したのですが、「寄贈者との取り決めで、公開できないことになっている」とのことで叶いませんでした。私としては「このまま死蔵されてしまうのは惜しいので、せめて研究者に公開できるよう寄贈者にお願いして欲しい」と依頼しました。

今回の催しは、③researchmapに掲載された藤元さんの文章を読んで、とても面白いと思ったことから企画しました。この文章に、藤元さんは河田先生がお書きになった「戦争『絵画』の隘路について―挿絵・パノラマ・戦争画」(『美術フォーラム21』12号、2005年)を参考文献にあげておられました。早速その文章も読ませてもらい、「挿絵・パノラマ・戦争画」作者としての「木村白山」について語ってもらうのも面白いのではないかと、登壇をお願いした次第です。ご多忙の中、渡辺先生、河田先生、藤元さんには、貴重なお話を発表いただき、誠にありがとうございました‼

3人の発表に続いて、おもちゃ映画11作品を上映しました。

①のんきナ父さん新浦島の巻②第二巻乃木将軍と凸山二等兵③漫画 兵六夢物語④大冒険漫画 無人島探検⑤熊本城の密使⑥映画劇 夜討曽我⑦何が凸チャンを落第さしたか⑧漫画 侍ニッポン⑨茶釜騒動⑩何が凸ちゃんを落第さしたか⑪漫画 炭かぐら高田の馬場。

 

さて、小休憩を挟んでの第2部は、今回特別に用意した6作品を上映しました。

①「漫画 砂煙り高田のグラウンド」。国立台湾歴史博物館から映像使用許可を得ての上映です。2003年に台湾西部の都、嘉義で日本統治時代の映画フィルムが映写機など関連する機材と一緒に見つかり、2005年台湾歴史博物館が購入して、国立台南芸術大学によって修復されたうちの一本です。これらのフィルムについては、三澤真美恵編『植民地期台湾の映画-発見されたプロパガンダ・フィルムの研究』(東京大学出版会、2017年)をご覧ください。先に触れたとちぎあきらさんの論考も所収されています。

②「赤垣源蔵 徳利の別れ」。1924年に作られた木村白山最初の作品。

③「塩原多助」。1925年に作られた勤倹貯蓄をテーマにした教訓話。

④「御国の為に」。読みは「おくにのために」。1928年に作られた日露戦争を舞台にした話。乃木将軍のリアルな描き方に注目。

⑤「荒鷲」。1938年に作られ、この作品を最後に木村白山は、アニメ界から消えます。9日は、木村白山のアニメ界で最初と最後の作品をご覧いただいたことになります。

⑥「蟹満寺縁起」。1924年製作、唯一の影絵アニメを渡辺先生のたっての希望で上映しました。渡辺先生は、先の発表の中で「蛇の祟りを避けるために太田先生の奥さんが蟹満寺にお参りした」と裏話を披露されましたが、諸事情で上映が難しいと判断し、その代わりになればと「蟹満寺縁起」に因むお話をしようと、8月20日京都府木津川市山城町にある蟹満寺を訪問しました。不測の事態で渡辺先生不在の中での上映となりましたが、作品鑑賞後に、その探訪時の様子をパワーポイントを使って紹介しました。こちらで書きましたので、良ければご覧ください。

お寺の方に「『飢餓海峡』などで有名な内田吐夢監督やアニメ―ション作家として知られていた木村白山が訪ねてきたとお聞きになったことはありませんか?」と尋ねましたが、首を横に振られました。また、「お寺ゆかりの素晴らしい影絵アニメーション『蟹満寺縁起』があるのですが、上映して地域の皆さんでご覧いただくのは如何でしょうか?」と提案してもみましたが「興味がない」との返事で、少々ガッカリしました。けれど、檀家さん頼みのお寺のこと、過疎と高齢化が進む地域でこれ以上檀家さんに負担を掛けるのは忍びないと思われたのかもしれないと思いました。もう一人タイトルに奥田秀彦の名前も上がっていますが、この方も、木村白山同様に生没年不詳です。

ここで、本来なら渡辺先生に「東京アニメアワードフェスティバル功労賞受賞」のお祝い品と花束を贈呈し、記念撮影する段取りでしたが、主人公がおられなくなりましたので、それらは茶話会の途中に抜けだして、ご本人にお渡ししてきました。

恒例の記念写真です。催しが長引いたため、第1部で帰られた方もおられ、特別上映した作品を見ていただけなかったことが悔やまれます。

DSC06370 A - コピー終了後の茶話会は「木村白山に迫ろう!」をテーマにみんなでおしゃべり。

DSC06371 - コピー

参加者のお一人、映画研究者の鷲谷花先生が茶話会で「参考までに」ということで、木村白山作画「アクメスライド 如是姫 善光寺縁起」(原作:中山徳重/脚色:三樹茂/監修:善光寺大勧進/製作・配給:奥田商会)をサプライズで見せてくださいました。

今年3月18日から、このスライドを所蔵する早稲田大学演劇博物館に貸し出しをお願いしていたのですが、「スライドそのものを貸し出すことはできない。デジタル化費用を負担の上、目的使用後には直ぐに返却が必要。台本は調査中だ」と6月12日に返事が届き、費用捻出が難しいこともあり、半ば断念していた作品でした。元の所蔵者の大阪国際児童文学館の方にお話をうかがったところ、橋下徹大阪府政時代に、国際児童文学館が見直し対象の憂き目に遭い、こうしたスライドを管理する施設としてふさわしいと判断して早稲田演博に寄贈されたのだそうです。台本は鷲谷先生が奔走して奥田商会から寄贈されたということです。

お話そのものはインドから始まり、暑い国だからか、やたらトップレスの女性が登場します。「すずみ舟」のこともあるので、木村白山は、よほどこうした女性がお好きな人だったのかも、と思いながら見ていました。長者が改心して、貧しい人々に施しをして、過去の因縁から長者とその娘の如是姫を恨んでいた少女とも和解し、娘の難病も全快する仏教法話。「遠くとも一度は参れ善光寺」を促すスライドなのかもしれません。

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もう1作品、余興として「アクメ・スライド 父の反省」(原作:雨宮義幸/作画:木村白山/製作:奥田商会)をデジタル化してご覧いただきました。午前中に父親役の渡辺先生と2回読み合わせをして「これで行きましょう!」と二人で意気込んだのですが、父親役不在となり、急遽藤元さんにピンチヒッターをお願いしました。

妻に先立たれ、酒におぼれていた父親が健気な娘の言葉を聞いて改心する場面で、ハンカチの出番があるだろうと思っていたのですが(実際、私は本気出して読んだので、リハーサルで涙声になりました)、観客から笑い声が続出。「あぁ、面白かった!!」と言われてしまいましたが、何はともあれ、これで用意した29作品(同じ作品でタイトルが異なるものも含む)+サプライズ1作品の合計30作品をご覧いただくことができました。これだけ多くの木村白山をまとまって上映したのは本邦初の試みに違いありません。

この後も、皆で白山についておしゃべりを続け、後片付けを終えたのは22時を過ぎていました。想定外のことも起こり、一時はどうなることかと心配しましたが、最後のお客さまをお見送りして漸く安堵しました。登壇者の皆様、鷲谷先生、そしてお忙しい中参加して下さった皆様に、心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

  

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