おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2019.06.20column

研究報告:後編「新資料発見‼横田永之助の16㎜トーキーフィルム、35㎜サイレントフィルムについて」終了

6月5日から始まった資料展「京都映画産業の礎を築いた二人の偉人、稲畑勝太郎と横田永之助」に、15日から資料が1点追加になっています。30日までのわずかな期間ではありますが、日本映画草創期に活躍した二人の人物に関する貴重な資料類を展示していますので、お一人でも多くの方にご覧いただきたいです。

期間中の8日と15日の二週にわたって、二人の偉人に関する貴重な資料を発見した長谷憲一郎さん(映像ディレクター、京都大学大学院生)に研究報告をして貰いました。前編の8日のタイトルは「新資料発見‼ 稲畑勝太郎がリュミエール兄弟に宛てた書簡4通について」でした。その振り返り記事はこちらに、『映画探偵:失われた戦前日本映画を捜して』の著者・高槻真樹さんが書いて下さったルポルタージュはこちらで掲載しています。

8日交流会の時に、国立映画アーカイブの入江良郎さんが、研究発表で長谷さんが示された塚田嘉信『日本映画史の研究ー活動写真渡来前後の事情』を指して「その編纂メンバーの一人の太田垣實さんは、丹念に京都の映画を調べられておられる」とお名前が登場しましたので、せっかくの機会だから15日に来て貰えたらと思い、伝手を頼りに連絡先を探しました。漸く14日夜にそれがわかり、電話でご案内を差し上げたところ、ご多忙の中、足を運んでくださいました。

DSC00230 (3)太田垣さん(右)は、長く京都新聞の文化面、特に美術担当記者として執筆され、現在も美術評論家としてご活躍です。

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右に写っている『京都の映画80年の歩み』(1980年、京都新聞社編・刊)は、1976年11月から1978年9月まで毎週1回京都新聞文化面に当時30歳代の太田垣記者が執筆された記事を纏めたもの。「連載開始は、京の秋恒例の京都市民映画祭が23年間にわたる幕をおろした時期で、京の地に育まれた映画文化を今一度、京都のまちと人との関わりの中で見つめ直そうとした企画です」(「あとがき」から)。稲畑勝太郎が、フランスで級友だったオーギュスト(リュミエール兄弟の兄の方)と再会した時、「オーギュストはシネマトグラフの人気とすばらしさを力説した。稲畑は、級友の誘いに好奇心を抱いて映写会に出かけた。シネマトグラフは、稲畑の心をたちまちとらえる。『欧米の最新文化を日本に紹介するのに、この新奇な映写機械はうってつけだ』と考えた稲畑は、リュミエールと交渉してシネマトグラフの東洋での興行権を獲得し(略)」と、目に浮かぶような描写で綴っておられます。連れ合いも愛読していました。太田垣さんと出会ったこともあり、私も手に取って電車での行き帰りに読ませてもらっていますが、とてもわかりやすく書かれ、丹念に調べられていて勉強になります。

もう1冊写っている『光へ 人へ―IMAGICA 映像の55年』は、この日幾人もの方が参加して下さったIMAGICA Labの方から寄贈していただきました。誠にありがとうございました。15日の長谷さんの研究報告「新資料発見‼横田永之助の16㎜トーキーフィルム、35㎜サイレントフィルムについて」でも、参考資料として用いられていた1冊です。

定刻になり、連れ合いが挨拶をして始まりました。「横田永之助は19歳から22歳までアメリカに行っています。今回横田家から貴重な資料をお借りして展示していますが、その中の1冊『横田永之助自筆年譜』を読むと、余り知られていなかった少年時代のこともわかります。これまで山師のように見られていましたが、語学ができ、映写機などへの関心と知識もあったことがわかり貴重な資料です。今回は映画史研究者だけでなく、映画に携わっている方の参加者も多くおられ、極東フィルム研究所(IMAGICA Lab.の前身)の貴重な映像も見てもらいますので、楽しみになさってください。では、長谷さんお願いします」とマイクを向けると、「2週連続で研究発表をなぜ引き受けちゃったんだろうと後悔もするほど、準備に時間がかかり大変でした」と話し出され、恐縮しました。8日は完徹で一睡もしないまま登壇、そして、15日は約5時間睡眠と、発表に全力を注いでくださいました‼ ご努力に心から御礼を申しあげます。

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「そもそもは、3枚の写真が揃ったのが、今回発表するきっかけになりました」と指差す長谷さん。そこには、リヨン留学時代20歳頃の稲畑勝太郎、15歳くらいの横田万寿之助(永之助の兄)、13歳くらいの横田永之助の写真を拡大して掲示しています(実物は手前のケース内に展示)。稲畑と横田万寿之助の写真は、長谷さんが1月25日の稲畑勝太郎の新発見資料について記者発表する1週間前に入手。横田永之助の写真は私共が昨年入手。「日本映画史がまさにスタートした3人の写真が偶然、2019年6月におもちゃ映画ミュージアムで揃ったことに、非常に運命めいたことを感じています」と長谷さん。以下発表内容をメモ書きをもとに書きます。

……今日は最初に横田永之助の略歴と稲畑から横田への映画事業の接続、発掘したフィルムを初上映して、その意義を話します。発掘したフィルムをデジタル化したものを初めて公開しますので、皆さんはそうした記念の場に居合わせたことになります‼ 横田は、明治末期から大正、昭和にかけて、映画の初期から映画が発達する過程で活躍しました。

1897(明治30)年に、稲畑と一緒にフランスに留学した兄万寿之助の紹介で、稲畑と知り会い、稲畑が持ち込んだシネマトグラフの興行を引き受けます。東京と関西で興行しますが、その東京を任されます。これまでは、1897年に映画興行を始めて、1900年パリ万博で映画と再会するまで事業を休んでいた「空白の2年間」と言われていましたが、実はそんなことはなくて、稲畑から受け継いだ4台の映写機と数百のフィルムを持って明治31年、32年に全国を回り、大都市を回って興行していたことが『横田永之助自筆年譜』からわかります。今後このことは、全国の新聞をあたって裏付けたいと思っています。

(筆者註:『横田永之助自筆年譜』は、どうやら晩年に思い出しながら書かれたものらしく、記憶違いも見受けられますから、裏付けは必要だと頁を繰りながら私も思いました)。

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1900(明治33)年、パリ万博壮行会が開かれます。平安神宮前で撮った記念写真の前列中央に毛皮を着て西洋の文化を感じるいでたちの38歳の稲畑が座っています。その左隣に横田万寿之助、その左隣に永之助の恩師・杉浦重剛、その左隣に永之助が並んで座っています。先ほどの『横田永之助自筆年譜』の記述もそうですが、この集合写真も稲畑と横田、二人の関係性を裏付ける一つの証拠になります。

(筆者註:この頃横田は高木家に養子にいっていたため、「京都商工会議所史」や明治33年2月3日付け日出新聞などに記載されたパリ万博渡航者の中に、高木永之助の名前で記載されています)。

(筆者註:太田垣さんは美術評論家の視点からこの集合写真をご覧になって、「稲畑と横田万寿之助の間に立っている着物姿は日本画家の竹内栖鳳で、この集合写真の中には洋画家の浅井忠もいるはずだ」と新たな気付きをお話くださいました。他の分野の専門家がご覧になると、他にも気付きがあるでしょう。資料保存の意義を改めて感じました)。

1901(明治34)年、最初は兄、万寿之助と一緒に横田兄弟商店(松原通富小路角)を作りますが、すぐに横田商会に名を変え、多い時は10を超える巡業隊を編成し、全国で映画興行をします。なお、横田兄弟商店の葉書も展示しています。

(筆者註:『京都の映画80年の歩み』27頁から引くと「神泉苑にあったといわれる現像所などで輸入フィルムの複製をつくり常設館に配給していた横田商会は、日本製の活動写真を求める見物客の声を無視できなくなった。ライバルの吉沢商店が目黒の撮影所で自前の活動写真をさかんに製作していたことへのあせりもあった。自らの手で活動写真をつくる必要に迫られた横田商会は、手はじめに「いもりの黒焼」という喜劇を仕上げたが、大衆にアピールする活動写真をつくれる人間がなんとしてもほしかった」)

後に「映画の父」と言われる牧野省三を見出し、「日本最初の映画スター」と言われる尾上松之助を輩出し、数々の作品を世に送り出した点でも横田の活躍は重要です。

1912(大正元)年、横田商会を始めとする4社のトラストで、日本活動写真㈱を創立し、中心的役割を担います。創立時から影の実力者であり、第5代日活社長になると同時期に京都商工会議所副会頭に就任します。

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1928(昭和3)年、りか子夫人が亡くなります。葬儀を報道した新聞記事に参列者の個人名が載っているのは数少ないのですが、その中に稲畑の名前が載っています。更に今回発見したフィルムの中に、りか子夫人葬儀の模様が映っていて、その中に稲畑がしっかり記録されていました。このことからも稲畑から横田へ映画事業継承が上手くいっていることが裏付けられます。

フィルムは、横田の長男龍次さんのご子息、つまり横田永之助の孫にあたる雅夫さん(88歳か89歳)宅から2018年に見つかった3缶のうちの1缶に入っていました。正確には5缶見つかり、そのうちの2缶は、惜しいことに画像が消失していました。

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最初に2018年4月7日に16㎜のポジフィルムが見つかり、半年後の9月29日に35㎜ポジフィルム4缶を発見しました。画像が消失した1缶は、1921(大正10)年9月に東宮殿下ご帰朝実況映画で、後の昭和天皇が初めて外遊され、横浜に戻って来られた時のニュース映画のようです。消失したもう1缶は、日活京都撮影所の正門入って直ぐのところにあった横田永之助の銅像除幕式が記録されていました。再生することが出来た1缶は先の昭和3年に営まれたりか子夫人葬儀の実況映像。もう一缶は3ロールを一つにまとめていた缶で、内容は横田商会の親睦会社「親和社」総会を映したものでした。

1928(昭和3)年5月6日に営まれたりか子夫人葬儀を実況記録したフィルムは木箱に入っていました。夫人は子どもに恵まれませんでしたが、「男の甲斐性」と言われた明治時代のことで、横田には子どもが5人いました。麩屋町にあった横田の大邸宅で順に子どもたちがお焼香しています。小さな赤ちゃんは三男の良之助さん(現在92歳)で、本来なら15日の研究発表にお越しいただくことになっていましたが、体調がすぐれずお越しいただけなかったのが残念です。

横田りか子夫人葬儀写真35㎜のナイトレートフィルムで、綺麗に染色されています。りか子夫人を乗せた霊柩車は、麩屋町通りから松原通りをゆっくり撮影用に人が歩くような速さで進みます。四条通りからレストラン菊水の前を通って、葬儀会場の知恩院へ進みます。カメラを何台も使って中継しています。大規模な葬儀で、日活の管轄で撮影され、社葬に近いです。焼香者に稲畑勝太郎の姿も映っています。土葬されていて、知恩院にお墓参りに行った折り、りか子夫人と横田が二人並んで知恩院に眠っていると思うと非常に感じるものがありました。写真はいくつもありましたが、動く横田は尾上松之助葬儀のロングのものしかなかったので、この記録映像は、近くで映されたとても珍しくて貴重なものです。

3ロールが一つに纏められていた缶の映像①1927(昭和2)年4月28日の「親和社総会の記録映像」は、りか子夫人が亡くなる1年前なので、夫婦二人とも映っています。鴨川の河原に降りて勢揃いの映像の中には、社長就任前の横田や池永浩久所長ら重役も映っています。毎年4月末に集まって親和会の総会が開かれていました。②りか子夫人一周忌忌法要の映像。知恩院の墓前で参列者がお参りする様子を記録しています。池永浩久らの姿も映っています。③1929(昭和4)年4月28日、三日月楼で開催された親和社第3回総会の映像。リラックスした横田始め、日活京都撮影所の重役クラスが一堂に集っています。

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次に「横田永之助 トーキーテスト」と缶蓋に書いてある16㎜白黒ポジフィルムの映像です。1932(昭和7)年10月5日に撮影された記録映像「極東フィルム研究所竣工式/日活横田永之助社長の祝辞」の中に含まれていたもので、極東フィルム研究所(現・IMAGICA Lab)の竣工式に、第5代日活社長として招かれた横田が、日本最初の自動現像所として太秦に竣工したことを祝って挨拶している様子が、音声付きで記録されています。その時期の他社の動きは次の通りです。

1932(昭和7)年、極東フィルム研究所竣工

1933(昭和8)年、J.Oスタジオ設立 大澤商会系

1934(昭和9)年、P.C.L.現像工場設立

1936(昭和11)年、横浜シネマ設立

IMAGICA Lab.の社史によると、極東フィルム研究所の親会社、長瀬商店にフィルムを納めていたコダック社極東代表者だったマルセル・ルオーは「いずれ発声映画の時代がやってくる。その時のために、長瀬商店の手で、トーキー専門の現像所を作ってはどうか」と進言しています。結局導入したのは、フランスのアンドレ・デブリー社の自動現像機でした。

「極東フィルム研究所竣工式映画/日活横田社長祝辞」(1932年10月5日)は35㎜フィルムで撮影されました。内容は①日本初トーキーフィルムの代表といわれる作品『浪子』の一部分②長瀬徳太郎の挨拶③日活・横田永之助社長の祝辞④長瀬社長の右腕と言われた小倉寿三による設備の説明⑤現像技術を教えるためにイーストマン・コダック社から派遣されたコルビンの余興。

横田の祝辞で注目するのは「これは京都に第一にできたということは、実に我々の誇りにするところであります」のように、約2分間の祝辞の中に「京都」が9回も出て来て、京都を強調しているところです。日活の社長として招かれていますが、京都商工会議所副会頭としての立場が前に出ている印象があります。京都商工会議所年報の昭和5年をみると映画製造業は十大産業のうちに入っていませんが、昭和6年には9番目に記載されています。京都の十大産業として認められたということになりますが、ここに横田の圧力があったのか否かは不明です。

調査の結果、1978年NHK「昭和回顧録 トーキー前夜」で「極東フィルム研究所竣工式映画」が放送されていたことがわかりました。当時はオン・エアー用に16㎜フィルムで残すのが主流だったので、横田家で見つかった祝辞の16㎜フィルムは、テレビのオン・エアー用にコピーされたものが流れてきたのかも知れません。

次に、「極東フィルム研究所竣工式/日活横田社長祝辞」の意義として、1932(昭和7)年は、映画史にとってどのような時期であったかを考えます。

①ニュース映画の台頭…映画はニュースも担っていました。今で言うテレビの役目も担っていました。

 「ニュース映画は一分一秒を争う世界であり、輸送もさることながら、いかに速く現像するかで勝負がわかれる時代となり、現像所の設備・品質・処理能力に勝るものが勝ちである」(横シネ社史より)。時代が自動現像を望んでいました。

②サイレントからトーキーへ大転換期でした。日活と松竹の覇権争いが渦巻きながら複雑に進行していました。

・ミナトーキー(日活)・土橋式トーキー(松竹)・P.C.L.トーキー(日活)・ウエスタン・エレクトリック式トーキー(日活)・RCAフォトフォーン・トービー、と競争があり、どのトーキーシステムを使うか、試行錯誤していました。

③トーキー化による製作工程の革新以外にも、以下のような問題があり、映画会社は試行錯誤し、トーキーが根付くには時間を要しました。

・製作費が三倍を要し、跳ね上がった(筆者註:田中純一郎が『日本映画発達史』で書いた、この三倍の根拠について参加者から質問あり)

・興業館の設備化(再生機の導入が必要になった)

・弁士の反発(サイレント時代のスターたちが職を失うことになる。音楽演奏のみでサイレント映画を観ていたアメリカやフランスでは、トーキー移行はもっと早かった)。

 溝口健二監督が「ミナトーキー・システム」を部分的に使ったり、松竹が「土橋式トーキー」で『マダムと女房』を作り、日活は「P.C.Lトーキー」を採用しようとしましたが、この時代で一番世界的に評価が高かった「ウェスタンエレクトリック式トーキー」を用いて『浪子』(1932年、田中栄三監督)を作りました。ただし、機械を使いこなす前だったので、手現像で行われたエピソードがあります。日本初の自動現像作品は『戯れに戀はすまじ』(1933年、青山三郎監督)だとこれまで言われていましたが、実は「横田永之助社長の祝辞」こそが、日本で最初だとわかりました。その後、日活は製作費がかさんでしまったり、ウエスタンスタンエレクトリック社との契約で経営が圧迫され、責任をとって横田は社長の座を追われますが、横田がトーキー化に舵を切ったことは、とても重要です。

横田永之助の祝辞部分は16㎜で見つかりましたが、それ以外のものが残っていないか、IMAGICAに尋ねたところ、極東フィルム研究所→極東フィルム現像所→東洋現像所→㈱IMAGICAに社名が変わった1986年に製作されたビデオに残されていることがわかりました。VHSテープで配られたものをご覧いただきます。「コルビンの余興」とありますが、録音シーンを映していることが重要です。

1932~33(昭和7~8)年は、サイレントからトーキーへ変革の流れの中で、手現像(枠現像)から自動現像へ大きな変革があった時代でした。手現像は職人の手によって行われていたため①ムラが発生②埃や気泡の付着によるパラが発生③現像が非効率でした。

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「横田永之助社長の祝辞」のフィルムは、ウエスタンエレクトリック式トーキーで録音され、フランスのアンドレ・デブリー社の自動現像機で現像されたもので、単なる横田のトーキーフィルムではなく、最新テクノロジーのデモンストレーションであるという位置付けでありました。後ろにスピーカーのようなものが見えるので、BGMとして音楽を流しながら一発同時録音したと思われます。同時録音をして、自動現像をして、竣工式当日に試写会で流すというもので、自動現像時代到来の嚆矢としてのものであると言えます。

結論として

①トーキー化(サウンド・オン・フィルム)の進展に伴って、手現像から自動現像(機械化)へ並行して進みました。これまで自動現像のことが見落とされていましたが、ここで証明されました。

②日活社長としてウェスタンエレクトリック社と契約をし、トーキー化へ舵を切った横田の果たした役割は正当に評価されるべきです。

今後の課題として、自動現像によって①効率化→映画の量産化への対応②画質向上→ムラやパラの少ない画質へ③音質の向上→ノイズの少ない音質へ④染色から白黒へ→自動化により染色工程が出来なくなった。(筆者註:特に日活はデンシティタイプ<濃度型>で、色によって音質が影響されるという問題がありました)⑤配給と興行→ニュース映画への対応など映画がどのように変化したかを検証しないといけないと思っています。……

と結んで研究報告を終えられました。

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「極東フィルム研究所竣工式映画/日活横田社長祝辞」は、自動現像の記念碑的なものであるので、ぜひIMAGICA Labの倉庫を探して欲しい」という長谷さんの要望に応えて、同社の平山さんが「仕事に追われて、会社のルーツを確認していくことがなかなかできない。今は100周年を目指すと社史編纂の仕事を少しずつ進めて、歴史を紐解いていこうとしている。記録として残されていない面もあるので、今日の話をタネに探していきたい(ここで拍手がおきました)」と答えてくださいました。

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太田は「昔は撮影所の中に現像所があった。キャメラマンの宮川一夫先生は手現像をしておられた。その経験が、宮川先生のその後の撮影技術に活かされることにもなった。トーキーになってから、専門のラボに届けて現像してもらうようになったのが、大きな変化である。撮影もモーターが入ることでスピードが速くなり、手回しではできなくなったし、長さも長くなった。それまでは手回しだったから回転のムラが多かったが、モーターが入ることで、安定したという変化もあった。現像だけでなく、映画技術革新の時代だった」と話しました。

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太田垣さんは「サイレントからトーキーよりもアナログからデジタルへはもっと大きな転換だ。それに関する資料を蓄積されているのかが気になる。資料的に押さえていくものが、きちんと蓄積されているのかが大いに気になる。あとで振り返るときに、そうした資料がきちんと残していくことが研究者にとって重要なことである。『これは終わったから』といって捨ててしまうのが、だいたい日本人の悪いところ、貧しいところ。文化国家、芸術国家を目指すといいながら、文化を押さえられていない。若い人が研究していることを、大変頼もしく思った」と感想を述べて下さいました。

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お決まりの集合写真。ご多忙の中ご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました。2週とも参加いただいた方が8人もおられました。感謝しています‼

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この日も遅くまで話が弾みました。楽しい一日をご一緒できて何よりでした。ちょっと驚いたのはキム・スヒョンさんから聞いた話。「韓国の映画人口は2億人で、映画料金は800円。その収益は映画の作り手に還元されるようになっている」というもの。ネットで検索した日本映画製作者連盟の統計によれば昨年1年間で1.69億人だそうです。今月6月1日から大手シネコン4社が一斉に値上げしました。一般が1900円に、シニア、ファーストディ、レディースディは1200円に。何もかも値上がりで、ただでさえ映画館人口が減少しているのに、より減少に拍車がかからないかと心配しています。

 

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