おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2020.07.22column

映画『祇園祭』(1968年)に関する情報提供をお願いします‼

10日午後のKBS京都テレビ「きらきん!」を録画しておき、それを漸く見ました。梶原 誠アナウンサーが、自らスマホを片手に撮影しながら、一人でおしゃべりする3分間の生番組。紹介して頂いたのは、今開催中の資料展「映画『祇園祭』」。若いディレクターさんが前もって下調べに来て下さり、古い記事なども勉強されていたのは素晴らしかったですし、午前中にお越しになった梶原アナウンサーご自身が、この映画をご覧になっていたことも幸いしました。お二人とも、いろんなことを勉強されていたので、3分間の中身はギュッと濃縮ジュースのように濃かったです。私どもが伝えて欲しいと願っていたことも漏らさず、視聴者の皆様にお伝え頂けて、さすがプロの仕事‼でした。ありがとうございました!!!
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中継があった 10日には間に合わなかったですが、15日に発行されたばかりの本『映画産業史の転換点-経営・継承・メディア戦略-』(森話社)を読んでいて、菊池暁さんが執筆された「まぼろしの映画『祇園祭』パンフレット」に掲載されていた「府政百年記念映画 祇園祭」と題されたパンフレットの写真に目が留りました。

おびただしい数の弓矢を受けても、前を向いて進む4人の絵が描かれている表紙は、民衆の強い意志を感じさせて、ちょっとやそっとでは忘れられないインパクトがあります。描いたのは、挿絵画家竹中英太郎。この映画の当初の企画者でプロデューサーだった竹中労の実父です。息子の頼みに三十数年ぶりに絵筆を執りましたが、息子の降板で、まぼろしのパンフレットとなりました。「できることなら実物を見てみたい」という思いは、まだ叶えられていませんが、新たに別の貴重な資料4点をお借りすることができました(写真)。

細長い表は、1968(昭和43)年11月23日~翌年2月15日の、大阪、兵庫、東京、京都、福岡、愛知、神奈川、北海道、広島にある全14館ごとの入館者数一覧、合計731,598人となっています(先にお借りした資料には、京都府内15館の11月25日~翌年2月9日の入館者数一覧が手書きされていて、135,078人と書いてあります)。製作上映協力金350円で掛け算をすると、大変大きな金額になります。

写真左は、「祇園祭展」の印刷物コピー。主催は祇園祭山鉾連合会・祇園祭協賛会・映画祇園祭製作協力世話人会・京都府・京都市。まだ、映画「祇園祭」製作上映協力会が組織される前の1968年5月10~19日に京都府立総合資料館(現在の京都府立京都学・歴彩館)で開催されました。同年5月11日付け京都新聞市民版によると、「祇園祭の伝統を、歴史的資料、山鉾を飾る美術品などで紹介しようと、祭りの起こり、展開、祭りをささえるものの3点をテーマに、山鉾連合会各町から門外不出のゴブラン織の見送り、前掛けなど山鉾を華麗に彩る装飾品116点が一堂に展示されたということです。前年7月に中村錦之助、伊藤大輔監督等が共同記者会見をして、映画『祇園祭』製作を発表し、翌年2月に、この展覧会が計画されています。

2ページ目に「祇園御霊会のあらまし」が書かれていて、「(略)応仁・文明の乱によって治安の乱れた京都では、人々は組織をつくって自分達の生活をみずから守らねばならなかった。弱いものが集まってより強いものとなるために、近隣の町々が結束し、「町組」をつくった。こうした民衆の組織の力が、立派な『山・鉾』をつくり育て、守りつづけてきたのである。『まつり』の行列も次第に神輿の渡御から『山・鉾』の巡幸へとその中心を移し、町の人々の『山・鉾』に対する熱意と情熱のたかまりは、天文2年(1533)の『神事コレナクトモ、山鉾ワタシタシ』の強い意向となってあらわれたものである。『山・鉾』こそは、町の人々の力と熱情-『組織の力』-を如実に示すものとして堅固にますます華麗なものとなってきた。(略)」とあり、そのまま映画『祇園祭』のテーマと重なっています。

写真中央の「映画『祇園祭』製作上映協力会経理状況一覧」(会計年度は1968年7月1日~1969年2月28日)。

写真右の「映画『祇園祭』製作上映協力会幹事会総会」(1969年3月28日開催)も興味深い資料です。この中で「京都府内においては、協力会システムの効果があって、当初目標を上回る金額を製作費として用立てることができました。全国的な状況は、日本映画復興協会のご報告によりますと、今日までに全製作費の80%を回収することができ、あと半年前後において、充分に回収される見通しをもっています。」と書かれていて、それならば、なぜ、京都府からの貸付金5000万円が返済できず、フィルムを京都府に渡したのかが、分かりません。

「映画『祇園祭』製作上映協力会幹事会総会」には、「映画『祇園祭』に対するジャーナリズムの評価から」という項目があり、毎日新聞大阪版。朝日新聞東京版と大阪版、読売新聞東京版、サンデー毎日、週刊朝日、キネマ旬報正月特別号、同2月下旬号、同3月下旬号、それに京都新聞投書欄2通が転載されています。地元の京都新聞がなぜ書いていないのかと不思議に思っていたのですが、1968年9月30日付け夕刊から翌年元旦付けまで、8回(うち2回は縮刷版で見つけられず。見落としたのかも)も広告が掲載されているので、提灯記事ととられることを回避するために、敢えて書かなかったのかもしれません。

製作上映協力会役員名簿を見ると、京都府・市内のありとあらゆる職業のトップクラスの人々の名前がズラリと並んでいて、オール京都でこの映画を応援しておられたのだなぁと分かります。こうした協力会は京都だけでなく、東京、名古屋、大阪、神戸にもあったそうで、それらの地域で活躍する映画サークルが、この映画製作上映に協力して下さったようです。

もう一つ、この総会資料を見ていて気がついたのは、「協力会ニュース」が8号まで発行されていたこと。毎回1万部、中でも12月1日発行6号は1万5千部もあり、再上映された8号は5千部印刷。発行物には、市電や市バス内ポスターや、新聞折り込みチラシなどいろいろあったようですから、どなたかこうした印刷物を保存されている方はおられないでしょうか? 

資料をお貸しくださった人から「映画『祇園祭』を海外に販売した」と聞いたのは、この日一番の驚きでした。「何処の国へ販売したのか」それを示す資料は見つかっていませんが、どこかの国に映画『祇園祭』のフィルムが残っているのかもしれないと思うとワクワクしてきます。「映画『祇園祭』は長いから、誰かによって切られた」とも聞きました。それが、どの部分なのかも興味があります。もし、海外に販売されたフィルムが切られる前の状態だったら、その手の入れ方も分かりますし。

総会資料の活動日誌1968年9月29日に「ソビエト映画代表、ロケ地および一部ラッシュを見学」とあります。ひょっとしたら、販売先はロシアかも知れないと思い、知り合いに、有名なゴス・フィルム・フォンド(モスクワにあるロシア国立フィルム保存所)にある所蔵作品を検索して貰いましたが、見当たりませんでした。ここになければ、ロシアにある可能性は低いそうです。

京都新聞の縮刷版を繰っていますと、同年9月24日東京で開会し、30日国立京都国際会館で閉幕したユネスコ本部と日本ユネスコ国内委員会主催「日本文化研究国際会議」についての記事が目にとまりました。東西の学者・文化人一行46名は、29日京都市内の名所・旧跡を見学。記事にはフランス、アメリカ、イタリア、オーストラリア、ドイツからの参加者の名前が出てきますが、ソビエトの人の名前は見当たりません。ダメ元で日本ユネスコ国内委員会に参加者名簿について問い合わせのメールを送信しました。未だ返事がありませんが、記事によれば、海外からの参加者は日本の古典芸術保存を強く要望したということですから、新丸太町通(京都市右京区嵯峨広沢付近)に組まれたオープンセットをご覧になって「素晴らしい‼」と感嘆の声を挙げられたでしょう。

オープンセットは、9月30日付け京都新聞によれば、長刀鉾を実物大で新調し(他に山6基も)、菊水、放下鉾の2基は本物を動員して、新丸太町通に組み上がったのは29日午後のこと。正面に見える小倉山を東山に見立て、道幅11㍍、全長1200㍍の室町時代末期の四条通を再現。八坂神社の楼門も作られました。美術デザインは井川徳道先生。俳優や大勢のエキストラでの山鉾巡幸ロケは10月2日から始まったので、ソビエト映画代表が見学したのは、このロケ地で間違いありません。日本らしい時代劇のロケ地をご覧になって、完成した映画『祇園祭』を買おうと思った国があっても不思議はないと勝手に想像しています。

長々書いた駄文を最後までお読み頂きありがとうございました。語学が得意な方は、ぜひ海外のアーカイブにこの作品が保存されていないか尋ねてみてくださいませんか?私の能力では、これらのことを海外のアーキビストに尋ねるのは至難の業です。お力添えを賜りますれば、本当にありがたいです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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