おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.03.27column

戦前の活動写真弁士、東堂荷村の写真

弁士・片岡一郎コレクション展「活動写真弁士の世界展」最終日前日の今日、待ちに待った新聞記事が漸く京都新聞に載りました。早速記事をお読みになって、戦前の活動写真弁士だった方のご遺族が来館。その弁士さんのお名前は、東堂荷村。京都の新京極にあった歌舞伎座所属。第2期で京都の新京極にあった歌舞伎座で上映された『十字路』のパンフレットを展示しましたが、ネットで検索すると『十字路』の説明に東堂荷村の名前がみえます。片岡一郎さんの大著『活動写真弁史』89頁にその名前が1カ所登場し、同本の人名索引によれば、東堂荷村[小脇弘美、本名・古新面登](1892ー没年不詳)]とあります。芸名もなかなかですが、本名も芸名のようですね。

お見えになった方は、東堂荷村のご子息(90歳代)の奥様。今朝の京都新聞の掲載紙面と大切なアルバムの中から写真3枚を持参して見せてくださいました。あいにく、来館いただいた時、私は不在でした。在館していたのなら、いろんなことをおしゃべりして詳しく教えて貰えたのでしょうが、連れ合いは、連絡先も、その方のお名前も、思い出も何一つお聞きせず、下掲写真をスキャンさせて貰っただけで済ましたらしく、そのことをとても残念に思っています。もし、関係者の方にこのブログが目に止まったなら、ぜひお話を聞かせて欲しいとお伝えくださいませ。

これが持参いただいた3枚のうちの1枚。1924(大正13)年4月、京都の岡崎にあった公会堂で万国博覧会参加50年の記念イベントに、松竹下加茂撮影所の女優さんたちが揃って記念撮影したときのもの。おそらく後列中央の男性が東堂荷村でしょう。会社代表としてお客様の前で挨拶し、女優さん達を紹介したとありますから、弁士の中でも重要な立場におられた方だったのでしょう。伏見直江さん同様、バンプ女優として知られる原駒子さんも写っています。

左端が東堂荷村で、その隣がご子息なのかも。新聞社の写真部が撮ったものなので、新聞紙面に掲載されたものでしょう。ネット検索したら、新京極歌舞伎座の解説部員には、早稲田旭濤、白河陽治、靑山南風、入江光村、安田旭美、そして東堂荷村の6名の名前が連なっていました。台本のようなものを手にした美形の男女とマイクが写っていますので、ラジオで何かの作品を弁士と俳優で再現したときの写真かもしれません。

1924(大正13)年5月の出勤に愛馬サラブレッドのイーボ嬢(5歳)に乗る東堂荷村。人気弁士の給料は、時の総理大臣よりも多かったと聞いたことがありますが、その裏付けを見るような光景ですね。トーキー映画に移行する前は羽振りが良かったのでしょう。その後のことなど、本当にお話をお聞きしたかったです。

新聞に活動写真弁士のことが載ったことで、展覧会が終わっても、まだまだ弁士ゆかりの人の話や、弁士さんの話を聞いた子どもの頃の思い出を持つ人からお話が聞けるかもしれません。4~5月も無声映画時代の『忠臣蔵』(1926年公開)をテーマにした展示ですから、チャンスはあると思います。たくさんのお話が聞けることを期待しながら、出会いを楽しみにしています。

 【3月28日追記】今来られた方とおしゃべりしていて、東堂荷村が活動写真弁士を務めていた歌舞伎座は、松竹発祥の地だと教えてもらいました。今もそのことを書いたものが掲げられているのか、今度見てこようと思いますが、松竹のWEBサイトに確かに書いてありました。松竹創業者の大谷松次郎と竹次郎兄弟の竹次郎が、1895(明治28)年新京極にあった阪井座で、父の代理で興行主になったのが松竹の始まり。1899年に竹次郎は座館の主になり、1900(明治33)年に老朽化した阪井座を取り壊して、買収した花見小路の祇園館を移転し、歌舞伎座と改称して開場したのだそうです。東堂荷村は、その歌舞伎座の筆頭弁士だったことから、1枚目の写真のように会社を代表して挨拶されたのでしょう。

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