おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.04.05column

「ペン画で甦る尾上松之助最晩年『忠臣蔵』展、始まっています‼

3月までは、活動写真弁士に関する資料展を開催していましたが、引き続き無声映画時代に関する展示を5月いっぱいまで開催致します。「ペン画で甦る尾上松之助最晩年『忠臣蔵』展」です。

皆様は「目玉の松ちゃん」と親しまれ、日本映画初期に絶大な人気があった 国民的大スター、尾上松之助のことをご存じでしょうか? 生涯1000本を超える作品に出演したと言われていますが、当館所蔵おもちゃ映画を含めても、残っている映像はほんの僅かしかありません。それほど日本の無声映画の残存率は低いのです。そんな中、当館の開館を報じてくださった日経新聞文化面をお読み頂いた熊本県在住の方から、古いフィルムを数多く寄贈頂きました。

幾本も貴重な映像が含まれていましたが、そのうちの一作品がこの『忠臣蔵』でした。家庭用として9.5㎜フィルムに再編集されたダイジェスト版のようなものですが、主要場面が全て映った全4巻のパテ・ベビー版としては完全なものでした。2015年秋に「貴重な映像発見」と大きく報道され、この作品は京都国際映画祭、東京国際映画祭を始め、国内外の映画祭でも上映されました。

『実録忠臣蔵』は1926年4月1日東京の映画館で公開され、日本各地でも上映されました。主演を演じた尾上松之助は、同年4月『侠骨三日月』(前篇)撮影中に心臓病で倒れ、誕生日前日の9月11日午前3時半に亡くなります。健康には気を遣っていたそうですが、人気スター故に次から次へと撮影に入っていたので、過労が原因だったのかもしれません。

今回の展覧会のきっかけを作って下さった熊本日日新聞の元記者松尾正一さんに教えて貰った本に、藤川治水著『熊本シネマ巷談』(1978年、青潮社)があります。この本に、おそらく熊本市内にあった日活直営館「世界館」で行われた『実録忠臣蔵』上映ポスターが載っています。「来る廿六日より尾上松之助追善大興行」、「故尾上松之助」と書いてあります。当時の新聞広告などをチェックして正確な上映年月が分かれば良いのですが、文面から、松之助が亡くなってほどなく彼の作品上映会が行われたのでしょう。

松尾記者さんのご紹介で熊本県山鹿市にお住まいだった芹川文彰さん(1911.6.19ー1984.3.26)が描き残した作品集を拝見して、ぜひこの映画が作られた京都で公開したいと熱望して実現に至りました。文彰さんがいつこの作品をご覧になったのか分かれば一番良いのですが、日記のようなものは残されていないようです。ネットで検索すると、山鹿市内に明治43(1910)年に地元の実業家達の手によって作られた芝居小屋「八千代座」があり、今は国の重要文化財に指定されているようです。ここでの上映だったのかもしれないと勝手に想像しています。

95年前、15歳だった芹川少年は、映画が上映された1926年「昭和元年12月画」の日付を記した『忠臣蔵』のペン画を描き始めています(№19)。12月から『忠臣蔵』のペン画を描き始めたのは、本懐を遂げた討ち入りの日が元禄15年12月14日(新暦だと1703年1月30日ですが)ということに関係しているではないでしょうか。今も赤穂浪士ゆかりの地域では、旧暦の12月14日に催しをされていますし、そもそも山鹿市は、義士の遺髪を守る土地柄でもあります。

少し横に逸れますが、ペン画に記された日付をみていると、最も早いのは「祥 1924年」と記された1枚。細密なペン画で一世を風靡した伊藤彦造(1904ー2004年)の絵を模写した作品で、とても13歳の少年が描いたとは思えないような素晴らしい作品です。模写の技術力の凄さに唯々感嘆‼本名の文彰ではなく、「祥」のペンネームを書いています。別のペンネームに「文祥」もあります。おそらく鞍馬天狗を描いたのではないかと思うのですが、ネット検索すると大佛次郎が作品の中で「鞍馬天狗」を名乗らせたのは「ポケット」の1924年5月号だそうです。「鞍馬天狗」に杉作少年が登場する「角兵衛獅子」連載に伊藤彦造が挿絵を描いたのは1927年。目下の関心事は、いつ伊藤彦造がこの挿絵を描いたのかということ。どなたかご存じでしたらお教えください。

ひょっとしたら1924年は書き誤りなのかもしれません。『鞍馬天狗角兵衛獅子』は人気となり、1927年嵐寛寿郎主演『鞍馬天狗異聞角兵衛獅子』として映画化され大ヒット、彼の当たり役になりました。たとえ1927年としても16歳、その緻密な筆致には驚きます‼

京都新聞のこの記事にも目が留まりました。文章最後近く「漫画で言うところの『ベタ塗り』……漫画の技法は、雪岱が先駆けて実践していたのだった」のところです。今、東京では三井記念美術館と日比谷図書文化館の2か所で小村雪岱(1887‐1940)を再評価する展覧会が開催されているそうです。記事に掲載されている吉川英治『遊戯菩薩』の挿絵は、1935年8月4日発行のサンデー毎日に掲載された作品。

こちらは、1927年1月16日、15歳の文彰少年が描いた『忠臣蔵』の一場面(№36)です。このような描き方がこの時既にあったのかもしれませんが、今でいう「ベタ塗り」をして表現しています。彼は無名のままに一生を終えましたが、同じように才能ある若者がまだまだほかにもおられたのかもしれないと思うのです。

文彰少年は、伊藤彦造の模写や俳優たち、鞍馬天狗の画(上掲)を描きながら、画家をめざしたのか?漫画家を目指したのか?わかりませんが、 様々な技法で描いています。そんな時に、尾上松之助の『忠臣蔵』に出会い、のめり込むように描き続け、3年間ほどの間に、500コマ近い場面を描きました。

4月17日に『忠臣蔵』に登壇いただく弁士の坂本頼光さんが、芹川少年のペン画をご覧になって「とにかく最後まで描き通したことが凄い。自分なら途中で投げ出してしまうだろう。人に見せる気がないから、その日の気分でペンや筆を使って自由に描いている。プロじゃない迫力がある。ボリュームを見たら凄いと誰もが感銘を受けるだろう。良い意味で異常。若い熱意で、思いだけで映画『忠臣蔵』を再現したいというのが伝わってくる。もしかしたら10回ぐらい映画を観たのかも知れないが、記憶が凄い。いやー、これは凄い‼」と唸っておられました。

坂本さんが「ヘンリー・ダーガーの人生を思わせる」とも仰ったので、ネット検索すると、ヘンリー・ダーガー(1892-1973)は、掃除夫の仕事をしていましたが、生涯孤独の中で生きていました。死後彼の部屋から見つかったのは、半世紀以上もの間、誰にも知られることなく描き続けた15000頁もの作品。表紙には『非現実の王国で』とあり、物語を図解する300枚の挿絵もありました。イリノイ工科大学でデザインを教えていた大家のネイサン・ラーナーが、残された作品に稀有な芸術的価値を見抜き、四半世紀にわたってダーガーの部屋と著作と絵を保存し、美術関係者や研究者を招き入れて、ターガーのライフワークの真価を問い続けたそうです。今日、ヘンリー・ダーガーの名は、アウトサイダー・アートの歴史の中で最も有名な人物の一人になっていて、ニューヨーク近代美術館やパリ市立近代美術館に彼の作品が所蔵されているそうです。

最初の日付が付された1926年の『忠臣蔵』ペン画から数えると今年で95年。ようやく彼の作品が評価される時が巡ってきたのかもしれません。日活は『忠臣蔵』映画の本命中の本命、決定版ということで売り出していたので公開当初の『実録忠臣蔵』ではなく、『忠臣蔵』の表紙になっています。きっと1冊に綴じようと思ったときに、表紙を描いたのでしょう。芹川文彰さんは、1984年に亡くなっているのですが、この劇画(この当時は劇画という概念はありませんが)ともいえる絵画帖を専門の方たちにも見ていただき、幻の無名画家の発掘になればと夢見ています。

4月17日の催しは、この映画『忠臣蔵』と芹川少年が描いたペン画が95年ぶりに出会う貴重な場になります。弁士:坂本頼光さん、楽士・天宮遥さんで上映します。残席僅かですので、お申し込みはお早い目にどうぞ‼

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