おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2021.04.22column

『大阪春秋』令和3年春号に、拙文「帝国キネマ100周年」を掲載していただきました‼

『大阪春秋』春号(通巻182号)を4月3日に受け取ってから、もう半月以上も過ぎてしまいました。「随筆春秋」のコーナーに「帝国キネマ100周年」と題した拙文を載せて頂きました。昨年、編集長の長山公一様から「大阪に関することなら何でも」とお声がけいただき、私のような世間知らずが書いて良いのかと随分悩みましたが、日頃ホームページで書いている文章を読んでお声がけくださったと知り、それが嬉しかったのと、丁度11月29日に帝国キネマ100周年記念イベントが行われることが分かっていましたので、かつて東大阪にあった「帝国キネマ」について知って貰えるチャンスになるのではないかと考えて、思い切って引き受けました。

Facebookでつながっている長山さんの記事から、うすうす感じてはいましたが、残念なお知らせが編集後記に書いてありました。版元の都合で、この春号をもって『大阪春秋』は休刊になりました。初めて載せていただいた文章が、最後の号になる巡り合わせは、とても悲しいです。『大阪春秋』は戦前に南木芳太郎さんが発行した郷土研究『上方』の志を継ぐものとして、1973年に創刊されました。大阪の出版文化を守りたいとこれまで頑張ってこられましたが、ついにこういう日を迎えることに。長山さんは、『大阪春秋』のともしびを潰えさせるわけにはいかないと再度の発刊を目指す考えだそうです。僅かばかりのご縁を頂いた私も願いが叶うよう応援したいです。

帝キネ100周年記念イベントからも既に5ヵ月近く経とうとしています。今頃になってお恥ずかしいのですが、この機会に、当日の振り返りを思い出しながら書いてみます。

事前に朝日新聞記事でも紹介して頂きました。ありがたいことに、記念イベントは参加希望者が多く、直ぐに締切りになったようです。

今年1~3月に開催した弁士・片岡一郎コレクション展の第1期で、大阪千日前にあった一大娯楽センター「楽天地」の絵葉書をご覧頂きました。映画を始め様々な娯楽があって大賑わいの名所でした。この「楽天地」を1914年5月に建設したのが大阪興行界の実力者、山川吉太郎です。彼は「楽天地」の映画館で上映するための映画を製作しようと1914年に東京の天然色活動写真株式会社(天活)設立に参画します。これが、映画製作会社「帝国キネマ演芸株式会社(帝国キネマ)」への第一歩となります。

11月29日午前中は、映画製作に邁進する山川吉太郎の東大阪に残る足跡を辿るウォーキングが行われました。1916年天活の大阪支社を受け持っていた吉太郎は近鉄河内小阪駅北東の地に小阪撮影所を建設しますが、3年後天活は解体。1920年北浜の相場師松井伊助の出資を得て、山川はこれを買い取って帝国キネマを発足し、帝キネ小阪撮影所として稼働します。1923年現代劇の芦屋撮影所を開設する一方、手狭になった小阪撮影所の2㎞南方に位置する長瀬に撮影所を移します。

午前9時に、近鉄長瀬駅近くの公園に、事前予約した30名が集合しました。

東大阪観光協会と案内ボランティアの方が親切丁寧にガイドしてくださいました。好天に恵まれて幸いでした。長瀬川沿いに遊歩道が整備され、とても美しくされていました。魚がたくさん泳いでいて、水鳥も気持ちよさそうにしていました。時期によってはボラの稚魚の大群も見られるのだとか。私たちの移動に合わせるかのように鳥も付いてきて。

長瀬川は現在は水路状の川ですが、元は旧大和川の主流で、広いところでは川幅約700㍍もある大河だったそうです。上流から流されてきた土砂が堆積して、川底が両岸の土地より高い天井川だったことから、大雨の度に洪水を繰り返していました。そこで江戸時代中期に川の付け替え工事が行われ、こうした狭い用水路だけを残して、新田として開発されたのだそうです。東大阪は商都大阪に近く、奈良、京都からも離れていない立地で鉄道の便も良いことに加え、そうした広い土地があったことも、ここに撮影所を設けようと考えた理由でしょう。小阪撮影所も長瀬撮影所も旧大和川の跡地に建っていました。

樟徳館前の案内板2種類。帝キネ長瀬撮影所が1930(昭和5)年に焼失した後、樟蔭学園創立者の森平蔵が跡地を購入して、7年の歳月をかけ粋を集めて建築した私邸です。今は大阪樟蔭女子大学の実習場として使用されています。4年に一度一般公開されていて、昨年がその予定でしたが、新型コロナの問題で中止に。2024年の公開時を今から楽しみにしています。国の登録有形文化財。

遊歩道からもお顔を拝観できる延命寺の大きな地蔵菩薩像と本尊の阿弥陀如来立像は大阪府指定文化財。京都府八幡市の石清水八幡宮の一堂が幾度かの変遷を経てこの地に落ち着かれたのだとか。

延命寺の前で映画の撮影が行われていたことを描いた日記。この周辺には、帝キネの著名な人たちがお住まいだったそうです。

学校法人樟蔭学園の前で。中の見学ができなかったのですが、建物が可愛らしいので、

ちょいと身を乗り出して、パチリ。田辺聖子さんの母校であるこの学園の創立90周年を記念して2007年に田辺聖子文学館が開設されました。田辺さんとカモカのおっちゃんの話、懐かしい。それらも含めた著作約450冊を並べた文学ウォールや書斎が再現されているそうです。

遊歩道に別れを告げて、近鉄奈良線沿いに西へ進み、途中公的施設でトイレ休憩。その建物近くの消火栓とマンホールの蓋に「布施市」と「ひがしおおさかし」の2種類が。「布施市」は1967年2月1日に東大阪市に合併しています。その名残ですね。

延喜式内社鴨高田神社。東大阪市保存樹に指定されている大きなクスノキがありました。この境内もこれから向かう小阪撮影所の時代劇撮影のロケ地でした。

何だか、とても気に入った石造物。「気にしない、気にしない、ドーンと行け!」と励まされているような気がして。

続いて、鴨高田神社北側に位置する長栄寺。中興の祖慈雲尊者の勉強部屋と言われている禅名台、本尊十一面観音立像、境内とも大阪府指定文化財。この門をくぐり、左へ進んだ奥に墓地があり、

その一角に、小阪撮影所の俳優「市川好之助(いちかわこうのすけ)」の名前が刻まれたお墓がありました。

「施主 芦屋映画撮影所所主 石井虎松」の名前が刻まれ、

献灯台には、名優「市川百々之助」の名前が刻まれています。ネット検索すると、市川百々之助を帝キネに誘ったのが市川好之助だったそうで、敵役が多かったらしく、1925年5月1日嵐山の保津川で主演の百々助と格闘シーンを撮影中に心臓マヒを起こして、水死されたようです。余談ですが、当館には、好之助亡き後の百々之助主演帝キネ映画『恋の簪』(1927年、森本登良男監督)と『快兇刃 神変鬼没の巻』(1928年、小国狂二監督)のおもちゃ映画があります。片岡一郎コレクション展でご覧頂いたメンコに、幾枚もの百々之助の顔を描いたものがあり、人気のほどがうかがえます。

花・線香立てには「帝国キネマ演芸株式会社 社長 山川吉太郎」と刻まれています。これを見ることができたのが一番の収穫でした。

建立されたのは、一周忌を過ぎた1926(大正15)年7月。彼の死は映画俳優初の殉職だったとネットにありました。ガイドさんから、尾上松之助が上って撮影した松の木が境内にあったと教えて貰いました。鴨高田神社や長栄寺などで多くの時代劇が撮影されました。

道路を東に進んで、銭湯「錦水湯」(近鉄河内小阪駅から徒歩約6分)に出ました。二流、三流の俳優さん達は、この辺りに住んでこの銭湯で化粧を落としてスッキリされたのでしょう。

帝キネ小阪撮影所の名残はどこにもありませんが、この辺りにあったようです。

総面積570坪、舞台20坪程度の撮影所で、市川百々之助や霧島直子(後の伏見直江)などの人気スターが活躍しました。近くの公園にあった案内板に当時の写真が載っていました。

ウオーキングはここで終わり、一応解散に。午後の部のライブ上映会『何が彼女をそうさせたか』まで、まだ時間があるので、途中で見つけた中華料理店でランチを済ませ、会場の東大阪市文化創造館へ。2019年9月1日にオープンしたばかりのピカピカの文化創造館と青空のコントラストが、とても美しい。

ホール入口にパネル展示。

「スペシャル対談」の前に、山川吉太郎の曾孫にあたる山川雅行さんの解説がありました。

これから上映する傾向映画の代表作『何が彼女をそうさせたか』を監督した鈴木重吉監督のことも紹介。

1937年7月7日盧溝橋事件に始まる日中戦争の前後に撮影された監督たちの集合写真。前列左から、衣笠貞之助、池田義信、山中貞雄、伊丹万作、五所平之助、村田実、鈴木重吉(赤丸)、溝口健二。後列左から、田坂具隆、島津保次郎、清水宏、阿部豊、牛原虚彦、山本嘉次郎、小津安二郎、内田吐夢。参列目左から、成瀬巳喜男、井上金太郎。第1期監督協会の集合写真でしょうか、錚々たる顔ぶれです。

帝キネが全焼した時の新聞記事。再び東大阪市で再興されることはありませんでした。今、東大阪はもの作りの街、ラグビーの街として知られていますが、かつて多くの映画を生み出した街だったことをご存じの人はどれくらいおられるのでしょう。今回のような催しを通して、東大阪市がかつて映画の街だったことを多くの方に知っていただけたら良いですね。向かって右にいる連れ合いは、『何が彼女をそうさせたか』復元に関わった経緯についてお話をさせて頂きました。

そして、お待ちかねの上映会。この日のために大森さんが説明しやすいように少し早さを編集し直しました。そのこともあってか、映像と活弁がしっくりあって、演じる方もでしょうけど、見ている方も自然と感情移入できました。これでもか、これでもか、とひどいめに遭うすみ子の哀れさに、会場の皆さんも息を凝らして見入っておられました。クライマックスにむかって天宮遙さんの演奏はいよいよ力強く、最後の「何が彼女をそうさせたのか」は会場を埋めた皆さんがすみ子の気持ちになって、「そうだ!そうだ‼」と心の中で叫んでおられたと思います。素晴らしい上映会でした!!!!!

達成感に笑みがこぼれる皆さんです。左から弁士の大森くみこさん、山川雅行さん、太田米男、楽士の天宮遙さん。とても良いものを見せていただき、誠にありがとうございました。

インターネット版「産経WEST」では、昨年12月5日付けで配信されたのですが、今年1月28日産経新聞夕刊に掲載も掲載。とても大きな扱いの記事でしたので、嬉しさも格別でした。西川記者さんに心より御礼を申し上げます。

こうして、『大阪春秋』春号(通巻№182)に拙文を載せて頂いたのを契機に、漸く帝キネ100周年記念イベントの振り返りを書くことが出来ました。このコロナ禍が鎮まったら、鈴木重吉監督のお嬢さんと一緒に、「帝キネが愛した東大阪マップ」を手に一緒にウォーキングする約束をしています。その日が、一日も早く来るよう願っています。

 

 

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