おもちゃ映画ミュージアム
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Toy Film Museum

2022.11.17column

大森一樹監督の訃報

昨日の京都新聞対向面にお世話になった大森一樹監督の訃報が載っていました。

11月12日夜、所用で大阪へ向かって車で走っている途中にオーバーヒートの警告ランプが表示。ガソリンスタンドで相談するも、不安を覚えてJAFを呼ぶことに。幸いにレッカー車で自宅まで運んでもらうことになりました。ホッとしたその時、知り合いから電話がかかってきました。それは大森一樹監督が白血病で亡くなった知らせでした。「えっ!」と絶句。調子が悪いとは聞いていましたが、まさかこのような知らせを受けるとは想像もしていませんでした。まだ、70歳。これからも学生指導や映画製作で活躍していただきたかったので、その死をとっても残念に思います。

連れ合いが大阪芸大在職中は大森監督と一緒に映画製作の実習を担当していました。大学では先端のデジタル映像技術を教えることも大事ですが、学生時代だからこそ「映画の原点としてのフィルム」を学ぶことを重視していました。けれども周りの環境はどんどん変わり、「奇抜で、夢物語のような映画」を作ろうとする学生に、人間の心理や写実性を教えようとしても通ぜず、「我々の映画製作は古典になってしまった」と嘆くことも多々あり、監督から今後の映画教育の在り方を相談されることもあったようです。学科長という立場から、時に意見の対立もあったようですが、生来の明るい性格で、中国や韓国で開催されたアジア国際青少年映画祭に一緒に参加したことが幾度かありました。

大森監督は撮影所での経験がなく、アマチュアの映画少年からプロの映画人になった最初の人です。シナリオの登竜門「城戸賞」を受賞されたことから、その作品の演出をされ、プロの映画監督としてデビュー、時代の寵児になりました。『ゴジラ」シリーズなどの先端の映画監督として活躍し、大学で教鞭をとるようになったのも早く、新生面を切り開く監督でした。初期の学生たちにとっては、「大森一樹に負けるな」が合言葉で、映画への夢を広げた人たちも多くいたことでしょう。

連れ合いは15日の葬儀告別式に参列させていただき、お顔も見てお別れをしてきましたが、まだまだ信じられない思いでいます。思い出すのは、2015年5月23日におもちゃ映画ミュージアム最初のイベントで大森監督にお話をしていただいたこと。私にとっては、この時が最初の出会いでした。連れ合いの上司にあたることで、是非にとお願いして実現しました。

「国際博物館の日に開館したい」という思いを固く心に決めていましたが、実際はまだまだ不完全な状態でのオープンでした。小さなスクリーンはありましたが、手伝って下さった方から「それでは小さすぎる」と言われて、その方の経験を活かして私は京都三条会商店街の布団屋さんに駆け込みました。ダブルサイズのシーツがあればと思ったのですが、生憎手に入らず、仕方なくダブルサイズの布団カバーを購入して町家に戻りました。お客さまには申し訳ないですし、大森監督にも面目がなく、講演時間が迫っている中、必死でした。

町家の北側に向かい、東西の柱にロープを掛け、そこに布団カバーを掛けて、俄かのスクリーンを作りました。小さく折り畳んで販売されていたので、その折目が気になったのですが仕方ない。その時到着された大森監督に挨拶をして、早速肝心のスクリーンが準備できていないことをお詫びしました。その時のことを何か書いていないかと振り返ってみましたら、こちらで書いていました。

読み返したら「おもちゃ映画ミュージアムらしくて良い」と、優しい言葉でこちらを安心させてくださっていました。同志社国際高校放送部員として大森監督にインタビューしていた彼女らも、あれから7年。今では社会人として活躍されていることでしょう。まさに伸び盛りの彼女らと対照的に、人は老いて人生の終い支度へと向かいます。大森さんの死からは心の深いところで響くものがあります。

生前、当館で上映を続けた学生映画First Pictures Showについて、「長く続けてください」とエールを送ってくださったことなども思い出しながら、改めて心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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