おもちゃ映画ミュージアム
おもちゃ映画ミュージアム
Toy Film Museum

2018.03.23column

元映画看板師高木紀彦さんから、額装した右太衛門さん絵画をいただきました

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21日は冬に戻ったかのような寒い一日でした。京都市内も一日雨が降るあいにくの天気でしたが、そんな中を岐阜県瑞浪市から元映画看板絵師・高木紀彦(としひこ)さんが次男さんと一緒に来館。お土産に、私が手にしている手描きの市川右太衛門さんの額をいただきました。下書きすることなく、直接筆を進めて描かれたとても綺麗な作品です。文字も真っすぐで美しいです。「贈おもちゃ映画ミュージアム様へ」と最初に書いてあるのが、また嬉しくて!素晴らしいお宝です‼ 描かれている作品は、旗本退屈男シリーズ第22作『謎の蛇姫屋敷』(1957年12月31日封切、東映京都作品)。主演:市川右太衛門、監督:佐々木康。安芸の宮島に起きた将軍暗殺の大陰謀を、ご存知三日月傷の退屈男が剣で裁くお話。

写真は左から今回展示している市川右太衛門コレクション所蔵者の八木明夫さん。その右隣が高木さん。一番右が京都にあった「タケマツ画房」で映画看板をかいておられた経験がある井上優さん。昔はどこの映画館にも人目を惹く創意工夫に満ちた映画看板が掲げてあり、当時の映画看板について話を聞く良い機会になればと思い、急遽井上さんにも声掛けをして駆け付けてもらいました。

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京都の繁華街、新京極や河原町にあった映画館の看板を作っていた「タケマツ画房」の2代目竹田耕作さんが、カメラに興味を持ち、製作した看板を記録しておいてくださったおかげで、当時の様子がわかります。映画が娯楽の王様だった時代、1週間毎に作品が変わるので看板屋さんも大忙し。作っては壊し、作っては壊しの繰り返しでしたが、耕作さんの機転で貴重な資料となっています。この本の一番下に写る「まねき」を書いておられるのが初代竹田猪八郎さん。井上さんは、親戚筋にあたる猪八郎さんに弟子入りして、主に文字を担当されていたそうです。今は4代目まねきの書き手で、フォントデザイナーとしてもご活躍です。

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お二人の映画看板についての話を録音すれば良かったのですが、電池切れであ~あ。しかもバタバタしていて、聞き漏らしもいっぱいの心残りな展開ではありましたが、メモしたことの中からいくつか。

(高木さん)(本『映画看板』を見て)「名古屋や岐阜の看板は、京都の比じゃない。京都は3倍から10倍の大きさだ」。

(井上さん)「(新京極や河原町は)建物が大きいから、看板を大きくしないといけない。あまりでかくて、余所から見にきた人が驚いていた」。

(高木さん)「大きい看板の方が簡単。大きな刷毛でチョイチョイチョイ。そうじゃないと商売にならんから。そのかわり、小さいものは大変」。

(井上さん)(高木さんが描かれた展示作品を指し)「ここの高木さんのものは凄いなぁ!」。

(高木さん)「岐阜県の中津川にあった工房では、絵の先生が下地を柔らかい感じで描き、それを弟子が描いていき、だんだん上にいって、最後に先生が目を描いて全体を引き締めていた」。

(井上さん)「父親は友禅の絵を描いていたが、他人の飯を食って来いというので、おじさんのタケマツ画房へ行った。工房には、デッサン係がいて、一日中描いてる人がいた。絵を描く人はたくさんいたが、文字を書く人がいなかった。最初のうちは、絵の具の練り、紙貼りなどの下仕事をするのが常だが、文字を書けば重宝され、しかも下仕事をしなくても良いので、17歳の時から文字を書き、22歳まで続けた」。

(高木さん)「絵を描く人間は、字を書くのが嫌になる。スターを描くまで10年くらいかかる。下仕事の間に、大将らの技術を見て描き方を学んだ。元から自分で絵を描いていたこともあり、『忠臣蔵』の大石内蔵助を描きたくて仕方なかったが、大将がいるから出番がない。漸く一人前になって描けるようになった頃に映画が衰退し、『お前は要らん』と言われた。『用心棒』(1961<昭和36>年、東宝)が出てきて、テレビの登場もあり、昭和40年代を区切りに、映画の仕事がなくなった」。

(井上さん)「1週間で26軒の映画看板を描いた。毎週150~200枚のベニヤ板が工房に届いた。毎週映画が変わるので、風に飛びさえしなければ、映画看板は1週間もったら良かった」。

(高木さん)「伊勢湾台風の時、何もなくなっていた」。

(井上さん)「台風の時はナイフを持っていって切り、看板は全て取り外した」。

(高木さん)「昔は映画のフィルムを映画館から映画館に、自転車やオートバイで走って運んでいた。7巻が終わろうとするとき、8巻が届いてないと中断しなきゃならんし」。

(八木さん)「映画館では、よくフィルムが燃えて、中断した」(注:不燃性フィルムだから、1コマ燃えるだけで済みました)。 

当時は映画のポスターを貼る場所が町内にいくつかあって、既に貼ってあるポスターの上に刷毛で糊を塗って上から次に上映するポスターを貼っていたそうです。フィルムや関連資料だけでなく、看板もポスターも残す意識は少なくて、常に目は前を向いて走っていた時代でした。

今や映画の看板に関わっていた方も少なくなり、半世紀前の仕事ぶりについて懐かしく話ができたことを、高木さんも井上さんも喜んでおられました。

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高木さんは、35~36歳の時に「時代劇の六大スターの映画全作品のポスターを作る」と決心したのだそうです。今は二人の息子さんと一緒に街の看板屋さんを営みながら、24歳から78歳の今日まで、ずっと描き続けておられます。「一日も休んだことがない。時間がもったいないから余所にも行かない」とおっしゃっていました。漸く一人前になって大石内蔵助が描けると思った矢先・・・、それならば、好きな映画作品を「自分ならこう描く」という気持ちで筆を持ち続けておられます。

お話をしている中で、尾上松之助さんの話が出ましたので、尾上松之助遺品保存会代表の松野吉孝さんから受け取っているたくさんの資料ファイルをご覧いただきました。「目玉の松ちゃん」が大好きで、自身もコレクションをお持ちのようで、既に何枚も描いておられました。でも、ファイルを繰りながら、だんだん目が輝きを増し、気に入った写真をもとに新たに描く気が沸き上がってきている様子が、みんなに伝わってきました。

聞いていて驚いたのは、モノクロ写真を見ながら「これは赤色やなぁ」「これは青色やなぁ」と元の色がお分かりになること。長年培った経験値ですね。八木さんが「フィルムが残っていたら、こんなに一生懸命市川右太衛門のことを集めなくても良いんですよ。残っていないから、どんな粗筋で、どんな様子だったのか調べている。残念ながら映画のことは大きな図書館に行っても余りない」と話されましたが、他の映画コレクターにも共通する思いでしょう。

高木さんが描かれた市川右太衛門さんの絵(A3サイズ)が壁一面を彩っていますが、1作品を描くのに1週間かかるのだそうです。それは「着物を描くのに時間がかかるから」で、「旗本退屈男の着物だけは嫌」だそうです。退屈男の着物は、著名な画家・甲斐荘楠音さんがデザインしたもの。映画黄金時代なので、実際の着物もきらびやかで豪華なものだったでしょう。「嫌だ」と言いながらも、描くことは楽しくて堪らない気持ちが伝わってきました。ただし、きっぱり言われたのは「人に頼まれては絶対に描かない」ということ。自分が描きたいと思い、決意したことはやり遂げる、そんな芯の強さを感じました。

右太衛門さん以外の作品なら、気を入れて描く時は1作品2日、気楽なものなら1日だそうです。他に嫌いな作品は、戦車とか軍艦が出てくるもの。5歳ぐらいの時に名古屋空襲を体験し、その壮絶で悲惨な状況が忘れられないからだそうです。そういうこともあり、『ネレトバの戦い』(1969年、ユーゴスラビア)を見ると、子どもの頃の体験を思い出し、涙が出てくると話しておられました。好きな作品は片岡千恵蔵さんの『赤穂浪士』。初めて観た映画で印象深いからだそうです。

4月1日に開催する宮川一夫先生の催しのこともお話し、4月にニューヨークで上映される作品の絵がないかを尋ねましたら、『用心棒』『雨月物語』『羅生門』『無法松の一生』『ある殺し屋』『座頭市千両首』があるそうです。当日はそれを額装して皆さまにご覧いただこうと思っています。どうぞ、お楽しみに‼

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